タイの海岸を歩く(3)ープラチュアップ・キーリー・カン – 飛行場を巡る攻防

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この記事は、「日本軍の跡を歩く」シリーズの一部になります。

目次

  1. Day 2
  2. 1941年12月8日:プラチュアップ・キーリー・カンへ日本軍上陸
    • 誰が上陸し、誰が迎え打ったのか
    • 損害
    • 上陸の目的
  3. 2026年8月11日:訪問記
    • 出発
    • 到着
    • マナオ湾(Ao Manao)
    • プラチュアップ・キーリー・カン博物館(Museum of Prachuap Khiri Khan)
  4. 【注】
  5. 参照資料

Day 2

今日から南下を始める。タイ湾沿いに南下し、最後はパッタニーに至る。
1941年12月8日の日本軍上陸地点を全て訪れるというのがこの旅の目的だ。そういう意味では、コタバルにも行きたいのだが、ケツが詰まっていてあまり時間の余裕がないので、マレーシアの国境を越えるのは次回に回すことにした。

私はもう引退していて試合終了済みなので、次の用事などあるわけがなく、ケツが詰まってるなどと見栄を張る必要もないのだが、パスポートが切れるという重大局面に遭遇してしまった。旅に住むという終活においてこれは由々しきことなので、遅れないうちに処理することにした。

臭い話はこれくらいにして、だいたいの旅程を書いておく。

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無料素材を元に筆者作成

1941年12月8日、日本軍は上の地図にある赤い地点に上陸した。これは、ほぼ同時刻に開始した真珠湾への攻撃と連動した日本軍の大作戦の一部であった。これに関しては、「タイの海岸を歩く (2) : バンプー (Bang Pu)――賭けに出た日本」を参照してほしい。

さて、地図上に示した赤い点とは、以下の地点を指す。

・プラチュアップ・キーリー・カン(Prachuap Khiri Khan)
・チュムポン(Chumphon)
・スラタニー(Surat Thani。バンドンとも呼ばれる)
・ナコン・シー・タマラト(Nakhon Si Thammarat、ナコンとも呼ばれる)
・ソンクラー(Songkhla、シンゴラとも呼ばれる)
・パッタニー(Pattani)

本シリーズの地名のカタカナ表記は、現地で私に聞こえた音をもとにしており、学術的な表記法に従ったものではない。

真珠湾攻撃が開始されたのは、現地ハワイ時間では、1941年12月7日午前7時55分だったが、それは、タイ時間では、1941年12月8日 午前1時25分、英領マラヤ(現在のマレーシア半島部)では、1941年12月8日 午前1時55分。そして、日本時間では、1941年12月8日午前3時25分であった(注1)。

整理すると、以下の表のようになる。

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筆者作成

タイ南部への日本軍の上陸が本当に真珠湾攻撃と同期することが意図されていたのかどうかは、実際の作戦行動の時間の記録を見て確認したい。

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(注2)

真珠湾攻撃は、1941年12月8日 午前1時25分(タイ時間)に始まったことをもう一度思い出してほしい。上の表を見ると、その時間の周辺にタイ上陸行動が起きていることが分かるだろう。しかし、各地でそれほどすんなりと上陸できたわけでもなさそうなことも推測できる。

12月のタイ南部のタイ湾岸は、北東季節風の影響で、雨が多く、風が強まり海が荒れやすい。タイの多くの地域が乾季に入る時期にも、この海岸では雨の多い荒れる季節が続く。同じ地域にあるホアヒンやサムイ島のリゾート地に旅行を計画する人は、この時期を避ける。しかし、日本軍は、季節的に荒天が起こりやすい海域で、この時期に上陸を決行した。

その夜、強まった風雨と波によって、この上陸作戦は難航した。
上記の表にあるように、プラチュアップ・キーリー・カンでは、やっと陸岸に到達したのは、午前4時20分頃と記録されている。真珠湾攻撃開始時刻の12月8日午前1時25分(タイ時間)から約3時間経っていた。

『戦史叢書』237頁には、波に翻弄されながら陸岸へ向かった様子が記されている。その記述によると、以下のようになる(時刻はタイ現地時間に換算した)。

午前2時30分:輸送船「浄宝縷丸」が泊地へ進入。
直ちに舟艇を海面へ下ろし、陸岸へ向かった。
その際、「舟艇は陸岸に向かったが木の葉のようにほんろうされた。将兵は頭から海水をかぶり、寒さに震えた」と記述。
午前4時20分頃:陸岸に到達。

(注3)

泊地進入から陸岸到達まで、荒い波によって接岸行動が難航したことが読み取れる。 一方、泊地への到着自体が他方面より遅かった理由や、予定時刻から何時間遅れたのかは、この箇所には記されていなかった。

スラタニー〔バンドン〕と、ナコン・シー・タマラト〔ナコン〕への上陸作戦はさらに遅れている。何があったのか。

『戦史叢書 第1巻 マレー進攻作戦』234~236頁に、悪天候と河口の発見難によって遅れた経過が記されている。 両地点とも、沖から海岸へ向かうだけでなく、河口を探して舟艇で川を遡る必要があった。
以下の時刻はタイ現地時間。

🔳ナコン・シー・タマラト

船団が投錨した頃に天候が急変し、雨を伴う突風が発生。
午前2時に舟艇が河口へ向けて発進したものの、豪雨で海岸線も灯台も見えず、後続艇を見失うおそれが生じた。
午前2時30分頃、いったん海上で全舟艇を集合させ、その後前進を再開。
海岸付近に達しても河口が見つからず、捜索を継続。
午前5時40分頃、ようやく河口を発見。
そこから川を遡るのに2時間余りを要し、午前8時頃ナコン駅付近へ進出、午前8時40分頃にその段階の上陸を終了。

(注3)

本文には「河口は発見できず、豪雨と高浪によって舟艇の行動は困難をきわめた」とある。

🔳スラタニー〔バンドン〕

接近中に風雨が急激に強まり、誘導していた軽巡洋艦「香椎」が予定針路を変更。本文は、そのため泊地への進入が遅れたと明記。
午前0時頃に輸送船「山浦丸」が泊地へ進入。午前2時10分に舟艇が陸岸へ向けて発進。
暗闇と激しい雨で、ともすれば前の艇を見失う状態だった。
午前6時頃に薄明となって目標の島を確認したが、海岸は一面の森林で、河口を見分けられなかった。
午前6時40分頃に河口を発見。川を遡り、午前8時頃に予定上陸地点のバンドンへ到着。

(注3)

本文には「河口らしいところは全く認められなかった」とある。
つまり、両地点とも未明には舟艇で進出していたが、悪天候下の航行、河口捜索の難航、川の遡航などに時間がかかり、上陸地点への到達が朝になった、ということだ(注3)。

1941年12月8日:プラチュアップ・キーリー・カンへ日本軍上陸

プラチュアップ・キーリー・カンへの日本軍上陸を、ソンクラー・ナカリン大学(Prince of Songkla University / PSU)の文化研究所は、以下のように解説している。

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(注4)

但し、これは大学文化研究所の解説であり、一次史料により確定したものではない。例えば、Khaosod 紙の英語版サイトで、証言を紹介しているが、そこでは上陸行動を04時頃、停戦式を翌日正午としている(注5)。

また、タイ空軍は戦闘を「33時間」と説明している(注6)。

一方、日本側の防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 マレー進攻作戦』(1966年)では、237頁には、輸送船「浄宝縷丸」と上陸部隊について、次の時刻が記されている。

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(注7)

ただし、これは戦後編纂された公式戦史の記述であり、巻末注116には出典として「歩兵第一四三聯隊第二大隊の記録」とあるが、それは確認できていない。

したがって、現段階で確実に言える範囲は、「12月8日未明に上陸し、抵抗は9日正午頃まで続いた」くらいだろう。

誰が上陸し、誰が迎え打ったのか

防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書 マレー進攻作戦』(1966年)233頁と237頁によると、宇都宮(木曽義)少佐を大隊長とする第55師団歩兵第143連隊第2大隊を基幹とする部隊(第6中隊・機関銃1小隊を欠く)が、プラチュアップ・キーリー・カンに上陸した(注8)。

部隊は、プラチュアップ湾側とマナオ湾(Ao Manao)側に分かれて上陸した。 プラチュアップ湾から上陸した市街側に進軍する部隊は警察などと交戦し、駅・電信施設を占領。マナオ湾側からの上陸部隊は、飛行場を攻撃し、さらに市街側から南下した日本軍も飛行場攻撃に加わった。

飛行場を防衛するために、タイ側で中心となって日本軍に抵抗したのは、当時の กองบินน้อยที่ 5(第5飛行隊)であった。本稿では、当時のกองบินน้อยที่ 5を「第5飛行隊」と表記する。これは、現在の第5航空団につながる。タイ空軍の公式説明には、空軍兵士に加えて警察官・青年軍事訓練生の犠牲も記録されている(注6)。

停戦については、政府の決定がただちに現場に伝わらず、命令の真正性確認を経て戦闘が終わった、ということだろう(注9)。

損害

損害に関しても、複数の記録が残っている。一覧にすると、以下のようになる。

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(注10)

上陸の目的

防衛庁防衛研修所戦史室編 『戦史叢書 マレー進攻作戦』(1966年、戦史叢書第1巻)82頁の第15軍の任務欄には、開戦初頭にタイ中部へ進駐するとともに、第25軍先遣隊と同時にプラチュアップ・キーリー・カン、スラタニー(バンドン)、ナコン・シー・タマラト(ナコン)へ上陸し、「各飛行場ヲ占領整備ス」とある。続いて、チュムポンからビクトリア・ポイントを占領し、その後のビルマ作戦を準備する計画が記されている。

したがって、プラチュアップ・キーリー・カン上陸の直接の任務は飛行場の占領・整備であったことは裏付けられる。なお、今回確認したのは作戦計画の掲載文であり、宇都宮大隊に交付された個別命令書の原本ではない(注11)。

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