【近現代史-07 】日本国憲法誕生 前夜(2)

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前回の記事のタイトルを『日本国憲法誕生 前夜(上)』としましたが、『日本国憲法誕生 前夜(1)』に変えました。理由は、言うまでもなく、(上)と(下)の二つの記事よりももっと長くなるからです。今後『日本国憲法誕生 前夜』には、番号をつけていきます。今回の記事は(2)になります。

目次

  1. 日本政府の公式課題としての憲法改正
    • 近衛文麿の動き
    • ⑴ 「近衛の自己弁護」説
    • ⑵  「近衛の本気」説
  2. 近衛・マッカーサー会談と憲法改正
  3. 近衛文麿は早すぎたのか
  4. 歴史の隙間に生まれた日本国憲法
  5. 参照資料:
    • ◾️近衛・マッカーサー会談録
    • ◾️近衞上奏文

前回は、8月14日にポツダム宣言を受諾してから、2ヶ月以内に書かれた以下の4つの文献を取り上げた。

9月18日:入江俊郎「終戦ト憲法」
9月28日:宮沢俊義「ポツダム宣言に基づく憲法改正要点」
10月3日:矢部貞治「憲法改正法案(中間報告)」
10月9日:外務省「自主的即決的施策の緊急樹立に関する件(試案)」

この段階では、憲法改正はまだ政府の正式な政策課題にはなっていなかった。しかし、ポツダム宣言と明治憲法の間の距離を理解していた一部の知識人や官僚の間では、遅かれ早かれ憲法改正が必要になるとの認識が現れ始めていた。上の四つの文書は、その具体的な現れであった。ここでは、日本人による自主的な憲法改正のための具体的な検討が敗戦直後に始まっていたということを記憶しておくべきだろう。

だからと言って、天皇主権や國體護持といった、明治憲法を支えていた国家観が一掃されていたわけではなかった。彼らは憲法改正を考えるにあたってポツダム宣言の文言を生かそうとしながらも、むしろ「天皇制/国体の護持」だけは譲れないという点では、四つの文書は共通していた。

それ以外のこと、例えば軍の解体などに関しては、無頓着にさえ見えるということを前回書いた。おそらく、それは「天皇制の維持/国体の護持」への集中の強さゆえに浮き上がった印象なのだろう。

以上が、前回までにカバーしたところだ。

今回は、1945年10月、憲法改正が政府の正式な課題となる過程を追う。その過程は、しばしば語られる「日本政府 対 GHQ」という単純な構図では捉えきれない。日本側にも米国側にも複数の構想と利害が存在し、それらが交錯する中で憲法改正問題は進んでいった。

日本政府の公式課題としての憲法改正

10月には、憲法改正をめぐって二つの調査経路が並行して現れた。一つは、近衛文麿と佐々木惣一が内大臣府で進めた宮中側の調査であり、もう一つは、幣原内閣が松本烝治を主任として始めた政府側の調査である。両者は制度的基盤も政治的意味も異なり、10月13日の新聞報道を契機に緊張関係を生んだ。

近衛文麿の動き

まず東久邇宮内閣の無任所大臣であった近衛文麿が動いた。10月4日、彼は、マッカーサーを訪問した。その時の会談録が残っている。 GHQでは、マッカーサー元帥、サザランド参謀長、およびアチソン政治顧問の三者が座っていた。
(以下、会談録からの引用部分は、グレー背景の中に入れる。)

冒頭で、近衛は以下のように切り出した。

軍閥と極端な国家主義者が世界の平和を破り、日本を今日の破局に陥れたことについては、一点の疑いもありません。問題は、皇室を中心とする封建的勢力と財閥とが演じた役割、およびその功罪です。この点について、米国ではかなり見方に誤りがあるのではないかと思います。すなわち、米国では、彼らは軍国主義者と結託して今日の事態をもたらしたと見ているのではないかと思います。しかし事実はその正反対であって、彼らは常に軍閥勢力の伸長を抑制する「ブレーキ」の役割を務めたのです。

「近衛・マッカーサー会談録」1945年10月4日

つまり、悪いのは、軍閥と国家主義者であった、皇室を中心とする封建的勢力と財閥は悪くない、むしろ軍閥勢力を止めるブレーキであったと言う。近衛自身はもちろん「皇室を中心とする封建的勢力」の一部であると述べたことが会談録の他の部分に記されている。さらに進んで近衛は以下のように言う。

軍閥や国家主義勢力を助長し、その理論的裏付けをなしたものは、実に「マルキスト」です。満洲事変以来、国内の急進的な革新がこれらの勢力によって叫ばれたのは、実にその背後に左翼分子が食い込んだことによるのです。

「近衛・マッカーサー会談録」1945年10月4日

要するに、悪いのは「マルキスト」や左翼分子なのだと言う。

満洲事変以来、日米戦争に至る全過程を観察するにあたって、この点を見過ごすならば、その真相をつかむことはできません(中略)したがって、軍閥を利用して日本を戦争に駆り立てたものは、財閥や封建的勢力ではなく、実に左翼分子の活動によるものであったことを知らなければなりません。

「近衛・マッカーサー会談録」1945年10月4日

近衛が展開しているのは、戦争責任を軍部・国家主義者・財界・皇室周辺の支配層に広く問うのではなく、「左翼分子」に転嫁する議論であった。

この会談録は、極秘文書に指定されていたが、昭和47年(1972年)5月31日に、極秘指定が解除され、多くの歴史家やジャーナリストが読めるようになった。「近衛は戦争をパヨクのせいにしたのか」などとふざける人はいなかっただろうが、これまでに多様な反応が出ている。いくつかにまとめると、以下のようになる。

⑴ 「近衛の自己弁護」説

これは分かりやすい反応と言える。特に戦前の近衛の振る舞いの記憶がある日本人なら、驚くより、「あの近衛が」と呆れたのではないだろうか?

といっても、現代では、もはや、戦前の近衛文麿のイメージなど湧かない人が多数派だと思うので、簡単にまとめておく。
まず、近衛は戦前3回首相になった。

  • 第1次近衛内閣(1937–1939)
  • 第2次近衛内閣(1940–1941)
  • 第3次近衛内閣(1941)

第1次近衛内閣(1937–1939)–日中戦争
第一次近衛内閣の下、1937年7月の盧溝橋事件後、近衛は「不拡大方針」を掲げたが、その後大量増派を決定する。そして、1938年1月には、後年有名になる「国民政府を対手とせず」声明を出した。これが、蒋介石政権との和平の可能性を決定的に閉ざし、その後、日本は日中戦争の泥沼に入っていく。満州事変から日中戦争への拡大の起点にあったのが第1次近衛内閣であった。

第2次近衛内閣(1940–1941)−大政翼賛会・新体制運動・三国同盟
さらに、1940年の第二次近衛内閣では、大政翼賛会新体制運動を推進した。
新体制運動と大政翼賛会は、政党政治の解体と国家総動員体制の形成に重要な役割を果たした。
そして、三国同盟が来る。1940年9月の日独伊三国同盟締結時の首相も近衛であった。

第3次近衛内閣(1941)–対米戦争回避失敗
近衛は1941年秋、米国との首脳会談を模索した。しかし、そこで行き詰まり、近衛内閣は総辞職した。近衛の後任が東條英機だった。

近衛は戦後、自分は戦争回避派だったと主張していたが、GHQや検察側は、それ以前の数年間に近衛自身が作った政策環境こそが戦争への道を開いたと見ていた。

ここまでの近衛の歩んだ道を読んで、ある程度「あの近衛」感が出来た後に、もう一度、「近衛・マッカーサー会談録」の上記引用を読めば、どのように感じるだろうか?戦争を起こしたのは左翼勢力であり、自分がその一部である「皇族を中心とする封建的勢力と財閥」は悪くないと、マッカーサーに自ら言いに行ったのが、戦前3回首相の任についた1人の日本人の1945年10月4日であった。

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⑵  「近衛の本気」説

近衛は、保身のために単なる弁解をしているのではなく、本気でそう思っていたという見方もある。一つの根拠は、1945年2月14日に近衛が昭和天皇に、早期終戦を申し上げた上奏文の内容である。

この上奏文を近衛は、

敗戦は、遺憾ながら、もはや必至であると存じます。以下、この前提の下に申し述べます。
という一文で始めている。そして、次の段落で、敗戦後の最大の憂慮は共産革命であると切り出す。
国体護持の立場から最も憂慮すべきことは、敗戦よりも、敗戦に伴って起こるであろう共産革命です。

「近衛上奏文」1945年2月14日

この後、国外におけるソ連の脅威に関する長い話が続く。そのあとで、近衛は戦時中の国内状況に話を移す。近衛による戦時下日本の政治状況の理解がよく表れている部分なので、ちょっと長い引用をする。

少壮軍人の多数は、わが国体と共産主義は両立するものだと信じているようであり、軍部内革新論の基調もまたここにあると存じます。職業軍人の大部分は中流以下の家庭の出身者であり、その多くは共産的主張を受け入れやすい境遇にあります。また彼らは軍隊教育において国体観念だけは徹底的に叩き込まれているので、共産分子は国体と共産主義の両立論によって、彼らを引きずろうとしているのです。

そもそも満洲事変、支那事変を起こし、これを拡大して、ついに大東亜戦争にまで導いてきたのは、これら軍部内の意識的な計画であったことは、今や明瞭であると存じます。満洲事変当時、彼らが事変の目的は国内革新にあると公言したことは、有名な事実です。支那事変当時にも、「事変は長引く方がよい。事変が解決すれば国内革新ができなくなる」と公言したのは、この一味の中心人物です。

これら軍部内の一味による革新論の狙いは、必ずしも共産革命ではないとしても、これを取り巻く一部の官僚および民間有志(これを右翼といってもよく、左翼といってもよい。いわゆる右翼は国体の衣を着た共産主義です)は、意識的に共産革命にまで引きずろうとする意図を抱いており、無知で単純な軍人はこれに躍らされていると見て大過ないと存じます。このことは、過去10年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面にわたり交友を有してきた私が、最近静かに反省して到達した結論であり、この結論の鏡にかけて過去10年間の動きを照らしてみると、そこには思い当たる節が非常に多いと感じる次第です。

私はこの間、二度まで組閣の大命を拝しましたが、国内の相剋や摩擦を避けるため、できるだけこれら革新論者の主張を受け入れて挙国一致の実を挙げようと焦慮した結果、彼らの主張の背後に潜む意図を十分に見抜くことができなかったのは、まったく私の不明の致すところであり、何とも申し訳なく、深く責任を感じる次第です。

「近衛上奏文」1945年2月14日

1945年2月の上奏文と10月4日の会談録をあわせて読む限り、マッカーサーとの会談で近衛が述べたことは、その場限りの保身のための言い訳ではなく、近衛自身が本気で信じていた認識だったと考える方が妥当かもしれない。

上記引用文の中で、近衛は、

職業軍人の大部分は中流以下の家庭の出身者であり、その多くは共産的主張を受け入れやすい境遇にあります。

「近衛上奏文」1945年2月14日

と言っているが、これはマッカーサー会談でも以下のように繰り返されていた。

ここでまた注意すべきことは、職業軍人である士官の出身です。彼らの大部分は農村の中流以下の家庭に属する者であって、彼らはもともと地主階級および資本家階級に反感を持っていました。特に東北地方における深刻な困窮の状態は、彼らに日本の社会的不合理に対する強い憤りを感じさせることとなり、ここにも左翼勢力の乗じる隙があったのです。

「近衛・マッカーサー会談録」1945年10月4日

この上奏文の主旨は、戦争を終結させるための進言なのだが、それがリベラルな印象を与えるとすれば、それは実態からは相当に離れる。

戦局の前途について、何らか一縷でも打開の望みがあるというならば別ですが、敗戦必至の前提の下に論じるならば、勝利の見込みのない戦争をこれ以上継続することは、まったく共産党の手に乗るものと存じます。したがって、国体護持の立場からすれば、一日も早く戦争終結を図るべきものであると確信しております。

「近衛上奏文」1945年2月14日

結論として、マッカーサー会談に関する「近衛の本気」説にも十分に根拠があると言えるだろう。

近衛・マッカーサー会談と憲法改正

マッカーサーとの会談の冒頭で、近衛は一頻り話をした後で、マッカーサーに質問をする。それに対するマッカーサーの回答部分を含めて、下に引用する。

近衛:
政府の組織および議会の構成について、何かご意見なりご指示があれば承りたいと思います。

マッカーサー:
決然たる口調で、第一に、憲法は改正を要します。改正して、自由主義的要素を十分に取り入れなければなりません。第二に、議会は反動的です。議会を解散しても、現在の選挙法の下では、顔ぶれは変わるでしょうが、同じ「タイプ」の人間が出てくるでしょう。これを避けるためには、選挙権を拡張しなければなりません。それには、第一に、家庭、すなわち婦人参政権を認めること。第二に、労務、すなわち物を生産する労働者の権利を認めることです。

「近衛・マッカーサー会談録」1945年10月4日

10月4日の近衛・マッカーサー会談は、確認できる限り、占領当局・連合国側の発言として「憲法改正」という語が明示的に現れる最初の記録である。占領当局はこの時点まで、指令や公表文書において「憲法改正」を明示していなかった。マッカーサーはこの会談で初めて、近衛に対し、「憲法は改正を要する」と述べた。

ここで注意すべきなのは、占領当局側から「憲法改正」という言葉が出たのは、日本側でその検討が始まった後だったということである。敗戦直後の日本では、前回の記事(1)で検討したように、入江俊郎、宮沢俊義、矢部貞治、外務省の試案など、憲法改正を具体的に検討する文書がすでに作られていた。

もちろん、これは後の憲法制定過程におけるGHQの介入を消す事実ではない。しかし、「日本側には改正の発意がなく、占領者が憲法改正という課題そのものを初めて持ち込んだ」という意味で、日本国憲法を「押し付け憲法」と捉えるなら、その出発点から留保が必要になる。

日本側の自主的検討が先行し、その後に占領者側が同じ語を発した。この順序は小さく見えて、憲法制定史の見取り図を変える事実である。

但し、これは会談中の質疑応答の中の言葉であり、公式の命令でも通達でもなかった。しかし、近衛はこの言葉を自分が憲法改正を任されたと解釈したのかもしれない。

10月11日、近衛は、内大臣府御用掛に任命された。
10月13日、新聞各紙が、天皇の下問を受け近衛らが憲法改正作業開始と報じた。この新聞記事によって、内大臣府が憲法改正問題に対して積極的に乗り出した印象を世間に与えたことに政府は困惑した様子が、吉田茂外相から岳父にあたる牧野伸顕に宛てた手紙の中に記されている。

政府は、同日中に臨時閣議を開き善後策を協議した。その結果、急遽、松本烝治国務大臣を主任として憲法改正の研究を行うことを発表した。政府としてもこの問題に取り組むことを示したのだ。その研究の場が、10月25日に設置された憲法問題調査委員会であった。松本烝治国務大臣が委員長であったので、しばしば松本委員会と呼ばれるようになった。

ここで、敗戦から約2ヶ月間に起きたことを整理する。

8月17日、東久邇宮内閣が成立した。
9月27日、昭和天皇がマッカーサーと会見した。
10月4日、近衛文麿がマッカーサーと会見した。この時、近衛は、東久邇宮内閣の無任所の国務大臣であった。
10月9日、東久邇宮内閣が総辞職し、幣原喜重郎内閣が成立した。しかし、近衛は入閣しなかった。
10月11日、近衛は、内大臣府御用掛に任命され、  佐々木惣一とともに憲法調査にあたることになった。
10月13日、新聞各紙が、天皇の下問を受け近衛らが憲法改正作業開始と報道する。
10日13日、幣原内閣で臨時閣議が開かれ、松本烝治国務大臣を主任として憲法改正の研究を行うことが決定され、発表された。
10月25日、憲法問題調査委員会が設立された。
11月24日、内大臣府が廃止された。
12月6日、近衛文麿はGHQから戦争犯罪容疑者として逮捕命令を受けた。
12月16日、出頭期限の日。近衛は服毒自殺した。

つまり、近衛は、東久邇宮内閣の閣僚の1人として、マッカーサーと会談し、そこで「憲法改正」という言葉を引き出し、自らが取り組もうとしたが、会談から5日後に東久邇宮内閣が総辞職して、後継の幣原内閣には入閣できなかった。それでも、近衛は、宮中機関である内大臣府に自分のポジションを置き、憲法調査にあたるところまで行った。ところが、幣原内閣は、それとは全く別に、憲法問題調査委員会を設置して、憲法問題の調査を開始することを決定した。

当初、近衛は、マッカーサーの支持を得られたと信じ、憲法改正に取り組もうとしたのかもしれないが、10月4日の会談の後、マッカーサーは近衛と距離を取り始める。そして、内大臣府そのものが廃止され、いわゆるA級戦犯として逮捕命令を受けることになった。

近衛を中心とする内大臣府の憲法調査は、1945年11月24日の内大臣府廃止によって制度的な基盤を失った。同日、佐々木惣一は憲法改正案を天皇に奉答している。これは、宮中側で進められていた憲法調査が、内大臣府の廃止に際して一つの到達点に達していたことを示す。近衛はその約三週間後、12月16日に自殺した。

その後、憲法改正案を政府として取りまとめ、GHQとの関係で具体化していく作業は、すでに10月25日に設置されていた幣原内閣の憲法問題調査委員会、すなわち松本委員会に集中していった。

近衛文麿は早すぎたのか

近衛文麿を、戦争責任を左翼に転嫁した弁解がましい人物、共産革命の妄想に取り憑かれた人物として断罪することは容易である。しかし、彼の言葉を数年だけ後へずらしてみると、別の風景が現れる。

軍閥を排除しつつ、皇室を中心とする封建的勢力と財閥を「安定勢力」として残せ、労働者や左翼の伸長を警戒せよ、日本を赤化から守れ、と彼は言っている。1945年10月には、これは敗戦直後の近衛による自己弁護であり、GHQの民主化方針とは衝突する主張だった。

だが冷戦が始まり、占領政策が反共・保守再編・再軍備へ傾くという現実の中に、もしこれらの近衛の言葉を置いたら、どう見えるだろう?彼はアメリカが最も必要とした人物になったかもしれない、というのはそういうことだ。

1947年2月1日に予定されていた二・一ゼネストは、マッカーサーの命令によって中止された。これは、後年になって「逆コース」と呼ばれることになる政策を象徴する初期の事件の一つだった。

占領政策は、初期の民主化・非軍事化という改革路線から、反共・再軍備・治安立法・労働運動抑制に向かう路線へと急激に「逆行」し始めた。これを「逆コース」と日本の新聞は呼び始めたが、当時の世界文脈で言えば、それは急激に激しくなる冷戦が占領政策へ投射された結果であった。

近衛がマッカーサーにアドバイスを求めた時、彼の返答の中に、このような言葉がある。

第一に、家庭、すなわち婦人参政権を認めること。第二に、労務、すなわち物を生産する労働者の権利を認めることです。

「近衛・マッカーサー会談録」1945年10月4日

この早い段階で、マッカーサーは女性と労働者の権利を認める必要性を近衛に説いているのだ。その2年数ヶ月後に、同じマッカーサーが二・一ゼネストの中止命令を出した。これは占領政策の転換を象徴的に表している。

アメリカは冷戦を戦い抜く方向へ世界戦略を大きく変更していく。日本の民主化・非軍事化は二の次になった。A級戦犯の多くは、釈放され、日本政界へのアメリカの本格的影響が始まったことは、今ではアメリカの公文書で明らかになっている。これに関しての詳細は別稿に譲る。

1951年9月に署名され、1952年4月に発効したサンフランシスコ平和条約によって、日本は形式上、占領状態から脱した。しかし、同時に署名され、同日に発効した旧日米安全保障条約は、日本を冷戦構造の一角に、西側の東アジアにおける要として強固に組み込むことになった。右傾化は安倍首相で始まったのでも、高市首相で始まったのでもない。日本の再出発と同時に始まっていたのだ。

そのほんの数年前にもう一度戻ってみよう。1945年10月、近衛は、皇室を中心とする封建的勢力と財閥を残さなければ日本は赤化すると、マッカーサーに訴えた。この時、マッカーサーは憲法に自由主義的要素を取り入れ、婦人参政権と労働者の権利を認めるべきだと答えた。近衛の言葉とマッカーサーの言葉は、ほとんど正反対の方向を向いていた。

しかし数年後、アメリカ自身が、日本を西側の東アジアにおける要として冷戦構造に組み込み、反共・保守再編・再軍備へと政策を転じた。その時、1945年10月の近衛の言葉は、もはや占領者にとって理解不能な敗戦国の旧支配層の弁明ではなくなっていた。近衛が生きていたなら、彼がアメリカに大いに歓迎された可能性は十分にある。

歴史の隙間に生まれた日本国憲法

1946年(昭和21年)11月3日、日本国憲法は公布された。政府は公布後、新憲法を国民に知らせるため、新聞・ラジオ・講演会などを通じた広報を進めた。文部省は子ども向けに『あたらしい憲法のはなし』を刊行し、民主主義を説明する教材も作成した。新憲法は、公布によって初めて国民の前にその全体像を現し、政府自身がそれを全国に浸透させようとした憲法だった。
戦前を生き延びた日本人にとって、それは驚愕すべきものだっただろう。戦争をしない国、天皇ではなく国民が主権者である国、女性も労働者も、すべての人の人権が保障される国へ、日本は変貌することになった。

それから3ヶ月も経たない1947年(昭和22年)1月31日にマッカーサーは、二・一ゼネストの中止命令を出したのだ。しかし、それでもそのさらに約3ヶ月後の5月3日に日本国憲法は施行された。その日から、日本国憲法は本当に有効な憲法として生き始めた。

この時系列はもう一度見てみると、日本国憲法は歴史の隙間で滑り込みセーフをもぎ取ったことが分かるだろう。
1946年(昭和21年)11月3日:日本国憲法公布。
1947年(昭和22年)1月31日:二・一ゼネスト中止命令。
1947年(昭和22年)5月3日:日本国憲法施行。

アメリカがポツダム宣言に従って、日本の民主化・非軍事化に全力を尽くしていたのは、1945年(昭和20年)8月14日の日本によるポツダム宣言受諾の瞬間から、1947年(昭和22年)初頭、逆コースが本格化するまでの1年半にも満たない短い期間であった。

日本国憲法は、その隙間で生まれた。

アメリカから見れば、自分で自分の罠に嵌ったと言えるかもしれない。1952年に署名された安保条約はその罠から抜け出すための第一歩だっただろう。日本の民主化・非軍事化にうつつを抜かしている暇はない。西側の同盟国としての力を強化することに集中するというのが、逆コースの意味だった。

このほんの短い隙間に成立しなければ、日本国憲法は誕生できなかった可能性はあった。しかし、この隙間に日本は大急ぎで衆議院選挙を行い、明治憲法の改正規定に従い、衆議院、貴族院、枢密院で次々と、新しい憲法の草案の争点を議論し、本体を固めていった。

日本国憲法は、ポツダム宣言の履行という形をとりながら、日本が歴史にあいた一瞬の隙間からもぎ取ったものだった、という見方があってもおかしくない。

次回は、10月25日に設置された憲法問題調査委員会の活動を見ていく。


参照資料:

◾️近衛・マッカーサー会談録

◾️近衞上奏文

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