タイの海岸を歩く(1)――なぜ日本軍はここに現れたのか

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この記事は、「日本軍の跡を歩く」シリーズの一部になります。

85年前の1941年(昭和16年)12月7日午前7時48分、日本軍は真珠湾攻撃を開始した。その同じ12月8日未明、日本軍はタイ各地への上陸・進入を開始した。
 (注:ハワイ時間:12月7日午前7時48分=タイ時間:12月8日午前1時48分)

具体的には下図で赤字で示した地点から日本軍はタイに上陸した。

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今回の旅では、その全ての地点を訪れることを企んでいる。これは、私の終活の一つである日本軍の跡を歩くシリーズの一部だ。

サムイ島、プーケット、パタヤ、ホアヒンなどのような観光地と違ってあまり知られてない場所にせっかく行くのだから、後続者のために少しは記録を残しておこうと思った。ただし、日本の近現代史が旅の主題なので、実用面ではあまり有益な情報はないと思う(「美味しいお店5選」とか、「現地お得情報」とかはない)。

ここの読者はよくご存知だと思うが、日本の義務教育課程では、歴史教育が著しく貧しい。私自身が初等・中等教育を日本で受けたのでそれは体験している。皮肉なことに、専門分野の合間に日本の歴史を勉強し直したのは高等教育を受けた米英であった。

2014年8月15日のNHK『大人ドリルスペシャル』で、10代、20代に街頭インタビューを行い、その中で、太平洋戦争について「日本はどこの国と一緒に戦った?」という質問に「アメリカ」と答え、アメリカは日本の敵国だったと教えられて驚く若者が紹介されていた。

2018年の英語教育協議会(ELEC)の文章にも、「最近の若い人の間では、かつて日本とアメリカが戦争をしたことを知らない人もいるそうだ」という記述がある。

しかし、これは現代の若者に特有の現象なのだろうか?若者の中でもある特殊な部分を切り取っただけのことではないのだろうか?

NHK放送文化研究所の2013年調査は、非常に興味深い結果を示している。「日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まった日」を正しく答えられたのは全体で20.0%、20・30代では6.9%だった。ただし60代以上でも24.8%に過ぎない。つまり、現代の「若者だけ」を糾弾するのは明らかにおかしい。

極端な例を挙げるなという人もいるだろう。確かに、受験クイズ脳だけが肥大化した我々日本人は、第二次世界大戦という名称でまるくパッケージされた戦争はなんだったのかと聞かれたら、即座にいくつかの事件名・年代・地名・人名などを思い出すことが出来るだろう。盧溝橋事件、南京事件、真珠湾攻撃、1937年、1941年、1945年、インパール、ガタルカナル、クワイ河、蒋介石、東条英機、近衞文麿等々。しかし、それらがどう繋がっているのかを説明出来るかどうか自問してみたら、どうなるだろう?

最近の2025年の日本財団「18歳意識調査」では、17~19歳1,000人の94.9%が太平洋戦争を学んだ経験があると回答しているが、その一方で、72.1%は家族や友人と太平洋戦争について「ほとんど話すことはない」と答えている。「知らない」と「話さない」のシナジー効果によって、我々は世代に関わらず、自分の国の歴史を忘却する下降スパイラルに入っていると考えても、真実からそう遠くないだろう。

「日本の歴史を知らない日本人」という揶揄は真摯に恥じるべき言葉だと思う。“あなたに言われる筋合いはない、関係ないだろ、ほっといてくれ“と言う人は少なくないかもしれない。

しかし、それはもはや個人の恥の問題ではない。物語の断片を都合よく繋ぎ合わせた妄想を歴史と称する”識者” がもてはやされ、歴史教育を剥奪された結果、妄想耐性を失った国民が大量に生まれ、国全体が引きずられ始めている今となっては。

いきなり、「1941年12月に起きた日本軍の同時多発攻撃」などと書き出したら、何のことか分からないと思うので、まず最初に「日本軍のタイ上陸」が置かれた当時の文脈について整理しておく。歴史における新発見とか、大スクープとか、論争をふっかけるとか、そんな話ではない。現在の歴史学における最大公約数的な、標準的な理解に従って叙述する。

もちろん、歴史について書く以上、私にも歴史を見る視点がある。それを「中立」という言葉で隠すつもりもない。何を重要な出来事として選び、どの出来事とどの出来事の間に因果関係を見るかという時点で、すでに歴史を書く人間の視点は入っている。

ただし、視点があることと、事実を都合よく選んだり作ったりすることはまったく別の話だ。解釈は私のものだが、その解釈を支える事実については、検証可能な史料に拘束される。少なくとも、ここではその原則で書いていく。

この記事の元資料は、日本側は、防衛研究所公開の『戦史叢書 第1巻 マレー進攻作戦』『第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』、旧日本軍作成資料を米軍が翻訳・編集した Japanese Monograph No.45 、タイ側は、タイ国立公文書館所蔵の政府調査報告を紹介したパッターニー・ソンクラー大学の研究、タイ政府・軍・地方行政機関の記念事業資料、英語圏については、英豪側公刊戦史、米軍史、E・ブルース・レイノルズの研究などを使用した。随時AIを使って資料の検索・照合を行い、可能な限り誤記や資料間の矛盾を確認した。

タイ上陸前史

1941年12月8日の日本軍によるタイ上陸は孤立した事件ではなかった。日本軍は同じ朝に、ハワイ、フィリピン、香港、マレー半島、タイへ一斉に動いた。タイ上陸は、巨大な作戦構想の一つの歯車だった。そして、その構想を逆算すると、

日中戦争 → 資源問題 → 仏印進駐 → 米英蘭との対立 → 南方資源地帯の武力確保 → そのためのマレー・シンガポール攻略 → そのためのタイ通過 → そのためのタイ上陸

という論理が見えてくる。以下、それを分解していく。

1 出発点は「タイ」ではなく日中戦争

日本は1937年から中国との全面戦争に入る。しかし、南京を占領しても蔣介石政権は降伏せず、重慶へ移って戦争を継続した。
ここで日本に二つの問題が生じる。

第一に、戦争そのものが大量の戦略物資を消費する。ところが日本は、石油をはじめ、鉄鉱石・ゴムなど多くの重要な戦略物資を海外に依存していた。

第二に、中国へ物資援助をもたらす援蒋ルート(注1)を遮断しなければ、中国を屈服させられない。主要な援蒋ルートの一つが仏印(注2)を通っていた。仏印ルートには当初複数の経路があったが、1939年末以降は、ハイフォンからハノイ、ラオカイを経て昆明へ至る滇越鉄道(注3)が中心となった。もう一つの主要ルートが英領ビルマを通るビルマ・ロード(注4)だった。

したがって、日本にとって東南アジアは最初から「植民地を奪いに行く場所」として現れたわけではない。中国戦争を終わらせるための後方遮断地域として、まず重要になったのだった。

1940年、日本軍が北部仏印(現在のベトナム北部)に進駐した大きな目的の一つも、中国への補給路の遮断だった。同時に、北部仏印への進駐には、その後の南方進出の足がかりを確保するという意味もあった。日本側の戦後作成資料にも、北部仏印への進出と「対支補給遮断」との関係が明記されている。

注1:援蒋ルート(えんしょうルート)
「援蒋」とは、蔣介石(しょう・かいせき)の「蔣」と「援助」の「援」を組み合わせた言葉で、蔣介石率いる中国国民政府を援助するという意味。日中戦争中、米英などから中国へ武器・軍需物資などを運んだ補給路を「援蒋ルート」と呼ぶ。仏印ルート、ビルマ・ロードなどがあった。
注2:仏印
フランス領インドシナの略称。現在のラオス、カンボジア、ベトナムを含む領域。
注3:滇越鉄道(てんえつてつどう)
フランス植民地期に建設された、ベトナムのハイフォン・ハノイ方面と中国雲南省昆明を結ぶ鉄道。「滇」は雲南、「越」はベトナムを意味する。日中戦争中には援蒋物資の重要な輸送路となった。
注4:ビルマ・ロード
英領ビルマのラングーン(現ヤンゴン)に陸揚げされた援蒋物資を、中国雲南省昆明方面へ運ぶための主要補給路。一般に、ビルマのラシオから中国の昆明へ至る道路を指す。

2 しかし、それが逆に日本を「南」へ押していく

ここに日本の戦略上の罠があった。

日中戦争を続けるために、日本は中国への補給路を遮断し、同時に戦争継続に必要な資源を確保する必要に迫られ、南へ目を向けるようになる。

しかし、日本が進出しようとした東南アジアは空白地帯ではなかった。仏印はフランス領、ビルマ・マレー半島・シンガポールはイギリス領、フィリピンはアメリカ領、現在のインドネシアはオランダ領だった。そして、日本が必要としていた石油・ゴム・錫などの重要資源も、この地域に集中していた。

つまり日本の南進は、必然的に東南アジアに植民地と権益を持つ欧米諸国、とりわけ米英との利害を衝突させることになった。
さらに日本は、欧米諸国との関係を悪化させながら、その一方で石油など戦争遂行に不可欠な資源を、まさにそれらの国々とその勢力圏からの輸入に依存していた。
ここに矛盾があった。

・日中戦争を続けるために南へ進出する。
   ↓
・南へ進出すると米英などとの対立が深まる。
   ↓
・対立が深まると、日本が依存している海外資源の供給が制限される。
   ↓
・資源が入らなくなると、今度はその資源を軍事力によって確保しなければ、日中戦争だけでなく戦争そのものを継続できなくなる。

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3 「南方作戦」はどのように決定されたのか

1941年後半、日本にとって最大の問題は、もはや単に「中国でどう勝つか」ではなくなっていた。

7月の南部仏印進駐に対して、米国は日本資産を凍結し、石油の対日供給は事実上停止した。英国・オランダもこれに続いた。石油を海外に大きく依存していた日本にとって、これは戦争を継続できる時間そのものが限られていくことを意味した。

そこで決定的重要性を持つようになったのが、さらに南にある東南アジアの資源地帯だった。特にオランダ領東インド(現在のインドネシア)のスマトラやボルネオには、日本が必要とする油田があった。英領マレーはゴムや錫の重要な産地だった。

こうして1941年秋、日本はフィリピン、マレー半島、シンガポール、オランダ領東インドなどを一体として攻略する「南方作戦」を具体化していく。

ただし、「南方作戦」という名前の一つの文書によって、ある日突然この戦争計画が決定されたわけではない。1941年秋から12月にかけて、国策の決定、軍事作戦の準備、開戦の最終決定、そして実際の攻撃命令が段階的に積み重なっていった。

◾️11月5日、御前会議で「帝国国策遂行要領」が決定された。
ここで日本は対米英蘭戦争を決意し、外交交渉をなお続けながらも、交渉が成立しなければ12月初頭に武力を発動する方針を定めた。
今回のタイ上陸を考えるうえで特に重要なのは、この文書に、
武力発動ノ直前、泰トノ間ニ軍事的緊密関係ヲ樹立ス
と明記されていることである。
つまり泰(タイ)は、12月8日になって突然戦争に巻き込まれたのではない。日本の南方作戦を実行するための重要な通過・展開地域として、すでに開戦前の国策の中に位置づけられていた。

◾️翌11月6日、大本営は南方軍に攻略準備を命じた。
南方軍総司令官は寺内寿一。南方軍の下には、マレー半島を攻略する第25軍をはじめ、フィリピンなどを担当する各軍が置かれた。
大きな地理的目標は、フィリピン → マレー半島・シンガポール → オランダ領東インド(現インドネシア)へと広がっていた。目的は、米英蘭の軍事拠点を排除しながら、石油・ゴム・錫などを産出する東南アジアの資源地帯を占領し、それを日本の勢力圏に組み込むことだった。

◾️11月15日には、「対米英蘭蒋戦争終末促進ニ関スル腹案」が決定された。
これは個々の上陸作戦を命じる文書ではなく、米国・英国・オランダ・蔣介石政権を相手とする戦争を、全体としてどのように進め、最終的に終結へ持っていくかという戦争指導の構想だった。
そして対米交渉は成立しなかった。

◾️12月1日、御前会議は対米英蘭開戦を最終的に決定した。
ここで重要なのは、この国家としての開戦決定と、軍隊に対する作戦命令を区別することである。
御前会議が国家として開戦を決定し、それを受けて大本営が陸軍には「大陸命」、海軍には「大海令」によって、実際の武力発動を命じた。

こうして12月8日、日本軍は南方各地でほぼ一斉に行動を開始する。

・マレー半島では、現在のマレーシア領にあるコタバルに上陸した。
・タイでは、バンプー、プラチュワップ・キーリー・カン、チュンポン、スラート・ターニー、ナコン・シー・タンマラート、ソンクラー、テーパー、パッターニーなどに上陸・進出した。
・香港では、イギリス軍への攻撃を開始した。
・フィリピンでは、アメリカ軍の航空基地などを攻撃した。
・そして太平洋の東端では、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃した(時差があるので、ハワイでは12月7日)

この全体像から見ると、1941年12月の日本の戦争計画の中で、南方作戦と真珠湾攻撃がそれぞれどのような位置を占めていたのかが見えてくる。

日本の戦争計画の中心にあったのは、真珠湾を攻撃することそれ自体ではなかった。

日本はまず、石油をはじめとする戦略資源を確保するため、東南アジアの南方資源地帯を攻略しようとした。しかし、それを実行すれば米英蘭との全面戦争になる。

そこで日本は、南方資源地帯を攻略すると同時に、その攻略を妨害しうる米英蘭の軍事力を初期段階で無力化しようとした。フィリピンの米軍、マレー・シンガポールの英軍、オランダ領東インドの蘭軍、そして太平洋方面から介入しうる米太平洋艦隊がその対象となった。

その関係を単純化すると、次のようになる。

❶ 南方資源地帯を確保する
   ↓
❷ そのためには、南方作戦を妨害できる米英蘭の軍事力を初期段階で無力化する必要がある
   ↓
❸ そのための具体的な攻撃
 ・フィリピンの米軍を攻撃する
 ・マレー・シンガポールの英軍を攻撃する
 ・オランダ領東インドの蘭軍を攻略する
 ・真珠湾の米太平洋艦隊を攻撃する

この全体戦略の中に置いて初めて、南方作戦と真珠湾攻撃は、一つの戦争計画を構成する異なる部分としてつながる。

したがって1941年12月8日を理解するとき、「日本が真珠湾を攻撃し、それと同時に東南アジアでも戦争が始まった」と見るだけでは、戦争全体の地理が逆転して見えてしまう。

むしろ、日本が南方資源地帯を目指す巨大な「南方作戦」を発動し、その一環としてタイ、マレー、フィリピン、香港などへの攻撃・進出が始まり、その東方で米軍の介入能力を抑えるために行われた海軍作戦が真珠湾攻撃だったと見る方が、日本がなぜ1941年12月8日にタイの海岸へ次々と上陸したのかを理解しやすい。

そして同じ12月8日、「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」が公布された。これは11月から積み重ねられてきた国策決定や軍事命令とは性格が異なる。すでに決定され、発動された戦争について、天皇の名において米国・英国との戦争を宣言した文書である。

4 では、なぜタイなのか

南方作戦の全体像が見えてくると、なぜ日本軍が1941年12月8日にタイ各地へ上陸したのかも理解しやすくなる。
最大の理由は、マレー半島の地理にあった。

日本軍が南方作戦で攻略しようとしていた最重要拠点の一つが、イギリスの極東支配の中心であるシンガポールだった。しかしシンガポールは、細長いマレー半島の最南端に位置している。

これを海上から正面攻撃するよりも、マレー半島北部に兵力を上陸させ、陸路を南下してシンガポールを背後から攻撃する方が、日本軍にとっては合理的だった。

そのため第25軍は、英領マレー北東岸のコタバルだけでなく、さらに北のタイ南部にも上陸し、そこからマレー半島へ進入する作戦を採った。

しかし、タイが南方作戦で持っていた意味は、マレー攻略だけではなかった。日本軍にとってタイは、南へ進めば英領マレーとシンガポール、西へ進めば英領ビルマへ至る軍事的な結節点でもあった。マレー攻略を担当する第25軍とは別に、第15軍にはタイの安定確保とビルマ作戦の準備という任務が与えられていた。

したがって、タイ各地への上陸・進出は、タイを南方作戦の軍事的な基盤として確保するという、より大きな構想の中で見る必要がある。

その中でも、とりわけソンクラーとパッターニーは、第25軍が英領マレーへ進入するための重要な上陸地点だった。

5 しかし、タイは植民地ではなかった

ここで、仏印やマレーとはまったく異なる問題が生じる。

タイは欧米列強の植民地ではなく、独立国家だった。

日本が必要としていたのは、タイ全土を征服して直接支配することではなかった。必要だったのは、日本軍がタイ領内を通過し、道路、鉄道、飛行場、港湾などを利用して、南方作戦を展開できることである。

日本とタイの間には開戦前から交渉があり、日本側はピブーン政権が最終的には日本軍の通過を受け入れる可能性があると見ていた。しかし、ここに大きな矛盾があった。

日本が開戦前にタイとの軍事同盟や日本軍通過の協定を正式に結ぼうとすれば、その交渉自体によって、日本が東南アジアで大規模な軍事作戦を準備していることを英米側に察知される危険があった。

そのため日本は、外交交渉だけで事前にすべてを解決するのではなく、開戦とほぼ同時に軍事行動を開始し、その既成事実を背景としてタイ政府に日本軍の通過を認めさせるという方法を採った。

11月5日の「帝国国策遂行要領」に、

「武力発動ノ直前、泰トノ間ニ軍事的緊密関係ヲ樹立ス」

と記されていたのは、この問題を示している。
つまり日本にとってタイは、敵国として征服すべき対象でもなければ、単なる友好国でもなかった。

南方作戦を成功させるためには協力を得なければならないが、その協力を開戦前に公然と取り付けることもできないという、特殊な位置に置かれていたのである。

6 バンプーは南部タイの上陸地点とは性格が違う

この点から見ると、バンプーへの上陸は、ソンクラーやパッターニーへの上陸とは異なる意味を持っていたことが分かる。

ソンクラーやパッタニーから日本軍が目指していた先には、マレー半島、そしてシンガポールがあった。これに対して、バンプーから目指していたのはバンコクだった。

バンプー方面に上陸した近衛師団の部隊は、南部タイからマレーへ進撃する第25軍主力とは異なる任務を持っていた。近衛師団主力は仏印から陸路でタイへ進入し、別働隊が海上からバンプー方面へ上陸する。そして双方がバンコクへ向かった。

つまり、近衛師団は二方向からバンコクへ向かった。

バンコク ← 仏印
   ↑
 バンプー

という形である。
この作戦の目的は、バンプー海岸そのものを占領することではなかった。目的は首都バンコクにあった。

ここで「占領」という言葉は、後世から日本軍の行動を評価して付したものではない。日本側の作戦計画と戦後の戦史資料をたどると、日本軍がバンコクへの軍事進入をどのように位置づけていたかが確認できる。

まず、開戦前の大本営の作戦命令では、南方軍司令官に対し、タイ軍が抵抗した場合にはタイ国内の「戦略要地」を占領する権限が与えられていた。つまり、日本軍のタイ進入は、タイ政府の同意が得られることだけを前提にした平和的な軍隊通過として計画されていたわけではない。抵抗があれば武力を行使し、必要な要地を占領することまで、あらかじめ作戦の中に組み込まれていた。

次に、旧日本軍関係者が戦後に作成し、米軍が翻訳・編集した Japanese Monograph No.45, History of Imperial General Headquarters, Army Section は、さらに明確に記している。この資料は、開戦前にタイとの軍事同盟を外交交渉によって成立させようとすれば、日本の開戦意図が露見する危険があると日本側が判断したと説明したうえで、

“to effect a sudden occupation of Bangkok”

すなわち、開戦と同時にバンコクを急襲・占領する方針を決定したと記している。

そして同じ資料は、12月8日の実際の行動についても、近衛師団の一部が海上からバンコク近郊へ上陸し、主力が午前3時に仏印=タイ国境を越えてバンコクへ進撃したとしたうえで、

“By evening of 8 December the capital was occupied.”

すなわち、「12月8日夕刻までに首都は占領された」と明記している。

この資料の性格にも注意しておく必要がある。Japanese Monograph は米軍による戦勝国側の戦史ではない。連合国軍最高司令官総司令部(SCAP)の指示によって、旧日本陸海軍の将校らが日本政府の復員機関の監督下で原稿を作成し、それを米軍が翻訳した資料群である。ただし、戦時中の一次史料そのものではなく、戦後に旧軍関係者が再構成した資料であるという限界もある。

さらに、戦後に防衛庁防衛研修所戦史室が旧軍の作戦資料や関係者の証言をもとに編纂した公刊戦史『戦史叢書』でも、タイへの進入は南方作戦の一部として扱われている。

したがって、ここで問題となるのは「占領」という言葉を使うか使わないかという後世の政治的評価ではなく、日本軍自身が、タイ側の抵抗を想定して武力による戦略要地の占領を準備し、バンコクの急襲占領を計画していたという史実である。

実際、12月8日の時点では、日本軍とタイ政府との間で軍隊通過をめぐる交渉はまだ決着していなかった。それにもかかわらず日本軍はタイ領内への進入を開始し、各地で抵抗したタイ軍・警察との間に戦闘が発生した。その一方で近衛師団はバンコクへ向かっていた。

したがって、バンプーへの上陸を、最初からタイ政府との合意のもとで行われた友好的な「進駐」や単なる「通過」として描くことはできない。

日本軍は、タイ政府との交渉が決着する前に軍事行動を開始し、首都バンコクを占領するという既成事実を作った。その軍事的圧力を背景として、タイ政府に日本軍の通過と施設利用を認めさせようとしたのである。
この意味で、バンプーとタイ南部の各上陸地点は、同じ12月8日の上陸でありながら、戦略的な役割が異なっていた。

バンプーがバンコクとタイ政府を軍事的圧力下に置くための入口だったのに対し、タイ湾岸各地への上陸・進出は、タイを南方作戦の軍事的な基盤として確保するためのものだった。

7 12月8日のタイでは「戦闘」と「外交」が同時に進んだ

1941年12月8日のタイで起きたことを特徴づけるのは、軍事行動と外交交渉が同時に進行したことである。

日本軍は12月8日未明からタイ領内への進入を開始した。各地ではタイ軍や警察がこれに抵抗し、実際に戦闘が発生した。

その一方、バンコクでは日本大使とタイ政府の間で、日本軍のタイ領通過をめぐる交渉が続けられていた。

つまり同じ時間帯に、地方では日本軍とタイ軍が戦い、首都では日本とタイの代表が交渉していたのである。

やがてタイ政府は日本軍の通過を認め、各地のタイ軍に抵抗停止命令が出された。その後、両国関係は急速に変化する。

12月11日には日本側から軍事同盟案が提示され、12月21日には日泰攻守同盟条約が締結された。

12月8日の未明には日本軍の武力進入を受け、それに抵抗していたタイが、そのわずか13日後には日本の同盟国となったのである。

この急激な転換こそ、1941年12月8日のタイを理解するうえで重要である。タイは単純に「日本軍に侵略された国」でもなければ、最初から「日本の同盟国」だったわけでもない。まず日本軍が武力によって領内へ進入し、その軍事的既成事実の下で日本軍の通過が認められ、その後、短期間のうちに正式な軍事同盟へと関係が変化していった。

この構造を見ると、バンプーも単なる一つの日本軍上陸地点ではなくなる。それは、中国大陸で始まった日本の戦争が東南アジアへ拡大し、米英蘭との全面戦争へ転化する過程で、独立国家タイを南方作戦の軍事回廊へ組み込んでいった地点の一つだった。

地理的に見ると、その構造はさらに明瞭になる。

Bang Puは、バンコクとタイ政府を押さえ、日本軍によるタイ領通過を確保するための入口だった。

一方、タイ湾岸では、プラチュワップ・キーリー・カン、チュンポン、スラート・ターニー、ナコン・シー・タンマラート、ソンクラー、テーパー、パッターニーなど、南北に離れた複数の地点で日本軍が上陸・進出した。

日本軍にとってタイは、南方作戦を展開するための重要な軍事的結節点だった。南へ向かえば英領マレーとシンガポール、西へ向かえば英領ビルマがある。

その中でも、ソンクラー、テーパー、パッターニーなど南部の上陸地点は、第25軍によるマレー攻略と直接結びついていた。ここから日本軍は英領マレーへ進入し、マレー半島を南下してシンガポールを目指した。

その一方で、タイはビルマ攻略のための作戦基盤でもあった。ビルマ攻略を担当する第15軍はタイへ進駐し、タイ国内の道路・鉄道・飛行場などを利用して、西方の英領ビルマへの進攻準備を進めた。

そしてタイ国境を南へ越えると、
コタバル → マレー半島 → シンガポール
へと続く。そのさらに南には、日本が決定的に必要としていたオランダ領東インドの石油資源があった。

こうして1941年12月の日本軍の行動を地図上でつなぐと、タイから二つの大きな作戦軸が伸びていたことが分かる。
南方資源地帯へ向かう戦略的な連鎖は、

中国戦争
→ 仏印
→ タイ
→ マレー半島
→ シンガポール
→ オランダ領東インド

そしてタイから西へ、
タイ
→ ビルマ

というもう一本の作戦軸が伸びていた。
つまりタイは、南方資源地帯へ向かう経路上にあるだけでなく、マレー・シンガポール攻略とビルマ攻略という二つの方向へ日本軍が展開する作戦基盤でもあった。

1940年の北部仏印進駐では、中国への援蒋ルート遮断が大きな目的だった。

1941年の南部仏印進駐では、南方資源地帯への進出準備という性格が強まった。

そして1941年12月8日、その準備段階は実際の南方作戦へ移行する。
中国戦争を終わらせるために南へ進み、戦争を続けるための資源を求めてさらに南へ進み、その途上でタイを軍事的な通路と作戦基地として必要とした――それが、1941年12月8日、日本軍がこれらの海岸に現れた理由であった。

END


この連載の今後の予定。副題は仮題。

◾️タイの海岸を歩く(2)
バンプー(Bang Pu):バンコクを目指した上陸部隊

◾️タイの海岸を歩く(3)
プラチュアップ・キーリー・カーン(Prachuap Khiri Khan):飛行場をめぐる戦闘

◾️タイの海岸を歩く(4)
チュンポン(Chumphon):12月8日の戦闘を記憶する町

◾️タイの海岸を歩く(5)
スラート・ターニー(Surat Thani):南方作戦の中継点

◾️タイの海岸を歩く(6)
ナコン・シー・タンマラート(Nakhon Si Tammarat):タイ南部への軍事進入

◾️タイの海岸を歩く(7)
ソンクラー(Songkhla):第25軍、マレー半島へ

◾️タイの海岸を歩く(8)
パッターニー(Pattani):日本軍上陸地の最南端へ

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