抗議する義務

上の写真は、米国ウィスコンシン大学マディソン校で、ガザに連帯するべく設営されたテントを守るため、周りを取り囲む学生たち。

小学校で何を習ったかなんてほとんど何も覚えてないけど、いくつかは鮮明に覚えている。その一つが「抗議する義務」だった。

それがどういう授業で、どういう文脈だったのか、あるいはそれはなんかの教科書の中に出てきたことだったのか、そういう細かいことは全然覚えてないけれど、教室のうしろの壁に貼ってある大きな紙に「抗議する義務」と書いてある風景がはっきりと頭の中に残っている。

その頃、壁新聞というものを生徒たちが作る/作らされることがよくあったのだけど、その大きな紙はそういうものの一つだったのかもしれない。

”おかしいと思うことがあれば、抗議しなければいけない”ということを力強く話していたのは、担任の辻先生だった。それが僕の1968年だった。

幼稚園に通っていた頃、町の中心から少し離れたところにあった警察署が取り潰されて「しょくあん」というものになった。今でいう「ハローワーク」だ。その頃住んでいた家の直ぐ近所だったので、僕は建物の取り壊されていく過程と、新しい建物が作られていく過程を毎日見ていた。子供にとって、とても興味深い一大イベントだった。それは、昭和30年代から40年代へ移り変わる時代、1960年代という何かが壊され、何かが猛然と作られる時代の一つの風景だったのだろう。

取り壊された警察署はどこへ行くのか?僕が通い始めた小学校の敷地の一部が割譲されて、なんとそこに新しい警察署がやって来た。なんでそんなところにやって来たのか分からないが、その小学校、つまり新しい警察署が面する通りがその町の中心地だったからではないかと思う。

その小学校+警察署の前の道では、機動隊と、ヘルメットとタオルで”武装”する大学生がしばしば衝突していた。1960年代後半の話だ。小学校の敷地内には機動隊も大学生も入って来ないので、敷地内の運動場や校舎のベランダから、僕たち小さい小学生たちは、小学校の前の大通りで激突している機動隊と大学生を見る。それは大きな劇場だった。

その頃、その町にダイエーという”大きな”ビルが出来た。個人商店しかなかった町では大きなビルが出来たというだけで一つの事件だった。今から思えば、せいぜい4、5階建てのしょぼいビルだけど、それが出来た当時のダイエーは、”未来”をその小さな町に持って来たかのような衝撃をもたらした。

母はダイエーによく行くようになり、時々僕を連れて行った。荷物を持たせるためだっただろう。僕はもちろん喜んで母といっしょにダイエーに行った。いろんなものが一つのビルに売っているあの”華やかな”場所に行くと思うだけで気分は高揚していた。この町に出来た最初のエレベーターがそこにあった。あの乗り物にまた乗れると思うだけで、僕は興奮していた。

ダイエーの楽しみは、それだけではなかった。屋上が小さな遊園地になっていて、そこでいくらか払えば乗り物に乗ることが出来た。しかし、それを楽しむ年齢を少し超えたところで、しかもエレベーターという本物の乗り物を知った今となっては、遊園地の乗り物は子供にも子供騙しに見えた。

僕の屋上遊園地での最大の楽しみは、そこで流れる音楽だった。歌謡曲でもなく、その頃全盛だったグループサウンズでもない、ちょっと違う(と僕の耳には聞こえた)音楽がダイエーの屋上遊園地にはいつも鳴っていた。何年か後、中学生になってから分かったことだけど、それはビートルズの曲だった。

”ダイエーの屋上に行けば、なんか違う音楽が聴ける”ということが、しっかりと僕の頭にはインプットされていて、母が「ダイエーに行くで」というと、頭の中で音楽が流れ始めた。ここから、数年後、中学生になってジミヘン*やグラファン**のエレキギターを必死でコピーするようになるまでには一直線だった。

しかし、世の中すべてバラ色のまま進まないということにも気がつき始める歳頃でもあった。その頃の大問題は、母はダイエーに行く時、僕と手を繋ごうとすることだった。ほんの数年前なら喜んで手を繋いでいたと思う。しかし、曲がりなりにもティーンエイジになっていた僕はそれが恥ずかしくなっていた。

ダイエーに行くのは、いつも夕方で空が真っ赤に夕焼けに染まることが多く、おまけに自然に近いその町では赤とんぼが飛んでる始末。僕の頭の中では、ビートルズが鳴り、「抗議する義務」が呪文のように回り続けてるのに、現実はお母さんと手を繋ぎ、夕焼けの中を赤とんぼを見ながら、ダイエーに向かって歩いている。なんかちがうという思いが湧いてくるのだけど、それが何か分からない。

そういう”なんか違う”買い物に行くある日、機動隊と大学生の激突に遭遇したことがあった。母はそれをじーっと見て、

「あんたも大きなったらあんなんする?」

と訊いた。

どれだけ悪たれであっても、”母を悲しませるのは悪いことだ”という規範がいつの間にか子どもの中に出来ていると思う。「する」と言えば、母が悲しむような気がして、「しない」と言えば、辻先生が言ったことと違うような気がした。たぶん、その時が人生初めての葛藤だったのではないか。

辻先生はベトナム戦争の話とか、沖縄からB-52が飛んでいくとか、沖縄に行くにはビザがいるとか話していた。小学生にベトナム戦争がどういう戦争なのか、ビザが何かも分かるわけもないのだが、辻先生は結婚したら、新婚旅行に沖縄に行くと言っていたから、何か悪いことが起きていて、「抗議する義務」があるから、大学生はそれに抗議しているのだろうとぼんやりと思っていた。

自分史上最大の勇気を出して、僕は「分からへん」と答えた。「せえへん」という母が気に入るだろうと僕が思い込んでいた答えをしなかった。その時、何がが切れた。たぶんそれが親と子がくっきりと別れた世界への扉を開けた瞬間だったような気がする。

母は、「そうか」と言っただけだった。

その時は、母を悲しませたと思っていたが、自分に子がいる今から思えば、今は亡き母は子の成長を確認して、ひょっとしたら嬉しかったかもしれないと思う。

注:* = Jimi Hendrix
** = Grand Funk Railroad

投げ銭

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