オルテガ・イ・ガゼットの著作『大衆の反逆』のタイトルそのままですが、この本の解説をするのが目的ではなく(それも必要な限りしますが)、この本に書かれている知見を使って、現在の日本を考える道具を増やすことが目的です。
オルテガが約100年前に書いた言葉の中には、そのまま現在の日本に当てはまりそうなものがたくさんあります。例えば、
大衆とは「みんなと同じ」であると感じても、そのことに苦しまず、他の人たちと自分は同じなのだと、むしろ満足している人たちのことを言う。
大衆とは、いわゆる経済社会的な意味での「下層階級」とは限らない。いかなる階級の中にも大衆と、そうでない人の両方がいるのである。
専門家は、ひとたびその外の領域に出たとき、完全に無知である。にもかかわらず、彼らは、自分の知らないことについても、知者として振る舞う。・・・自らを超えた使命や要請に「聞く耳を持たない」という意味で、彼らは最悪の大衆にほかならない。
日本が今いる状況から抜け出すためには何か方法があるのか。オルテガに学ぶことは出来ないか。それを考える材料になればいいと思います。
予め、読んでくるのが理想的ですが、読まずに参加しても分かるような構成にします。
これから読むことを考えてる方へ
『大衆の反逆』の翻訳は、たくさんあります。たいての図書館には下記リストのどれか一冊はあると思います。借りる時の参考にして下さい。どれでもいいですが、下のリストの一番下にある佐々木孝訳の岩波文庫版は新しい翻訳で比較的読みやすいと感じるかもしれません。
樺俊雄訳
樺俊雄 訳『大衆の蜂起』創元社、1953年。
樺俊雄 訳『大衆社会の出現 大衆の蜂起』創元社、1958年。
佐野利勝訳
佐野利勝 訳『大衆の叛逆』筑摩書房、1953年。
神吉敬三訳
神吉敬三 訳『大衆の反逆』(新装復刊1989年)角川書店〈角川文庫〉、1967年。ISBN 978-4-04-315502-6。
神吉敬三 訳『大衆の反逆』(改訳版)筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1995年6月。ISBN 978-4-480-08209-1。
桑名一博訳
桑名一博 訳『オルテガ著作集 2 大衆の反逆 無脊椎のスペイン』白水社、1969年。ISBN 978-4-560-02081-4。
桑名一博 訳『大衆の反逆』白水社〈白水叢書〉、1975年。ISBN 978-4-560-01821-7。- 選書判
桑名一博 訳『大衆の反逆』(新装単行判)白水社、1985年。ISBN 978-4-560-01852-1。
桑名一博 訳『大衆の反逆』(解説久野収)白水社〈イデー選書〉、1991年7月。ISBN 978-4-560-01896-5。
桑名一博 訳『オルテガ著作集 2 大衆の反逆 無脊椎のスペイン』(新装復刊)白水社、1998年11月。ISBN 978-4-560-02377-8。
桑名一博 訳『大衆の反逆』(解説久野収)白水社〈白水Uブックス 1101 思想〉、2009年3月。ISBN 978-4-560-72101-8。- 新書判
寺田和夫訳
寺田和夫 訳『マンハイム オルテガ』高橋徹 責任編集、中央公論社〈世界の名著 56〉、1971年。ISBN 978-4-12-400136-5。
寺田和夫 訳『マンハイム オルテガ』高橋徹 責任編集、中央公論社〈中公バックス 世界の名著 68〉、1979年。ISBN 978-4-12-400678-0。
寺田和夫 訳『大衆の反逆』(解説佐々木孝)中央公論新社〈中公クラシックス〉、2002年2月。ISBN 978-4-12-160024-0。- 新書判
佐々木孝訳
佐々木孝 訳『大衆の反逆』(解説宇野重規)岩波書店〈岩波文庫 白231-1〉、2020年4月。ISBN 978-4-00-342311-0。
書籍紹介
『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット (著), 佐々木 孝 (翻訳), 宇野重規(解説)
Kindle版、Audible版、文庫本がある。上記の数ある翻訳の中で一番新しいので、他より読みやすいかもしれない。宇野重規の解説も良い。
7月31日まで全録画半額セール中。クーポンコード:GJU8HNTS
レビュー
1人で読むには難しい本なので、今日、読み説きをしていただいて本当に良かった。自分でも読んでみたいし、もう一度録画をみて復習したいです。この本のことを知ることができて本当に良かった。
本を読んで、なぜこの構成なんだろう?と謎だったのですが、説明を聞いて理解できました。もう一度読んでみたいと思います。 それにしても、100年後の未来、しかも遠い異国の大衆にここまで当てはまってしまうことをロジカルに説明できるってすごいと思いました。若い頃に出会っていたい本でした。貴重な機会と、解説、資料をありがとうございました。
せっかく準備いただいたのに音楽ながれないのは残念でした。 また、この講座をうけて、(自分が)どうしていくべきなのかがむずかしいです!
とある大衆
初めての参加で入室するまでゴタゴタしてしまいました。 ホストのヨシさん、ありがとうございました。 また参加させていただきます。 ここ20年位の日本の劣化に何とも言えない気分でいます。 振り返ってみると以前から同じだったものがついに表面化してきただけなのかも 知れません。 喉の調子が良くなかったようで心配でした。 美味しいbeerを飲んでください。 お疲れ様でした!ありがとうございました!!
manngetsuneko
まず自分が変わります。私の場合はまず、歴史を学びます。他も足りないのですが。そしてそれを周りに見せる事を心がけます。真似する人を作りたい。仲間を作る事も大切だと思いますが、たとえ仲間が作れなくても、ひとりでも今日から出来る事があるはずだし、それを実行し、実行している事を見せるようにします。微力であっても。絶対に黙らない。
約100年前に書かれた本にもかかわらず、現在のじぶんの周りで起きていることに強くリンクしていると思えるお話でした。 「過去を超克するためには、追い払わないことなのだ」というところ、やはり歴史から学び、今後を考えてゆく視点がとても大事だと改めて感じました。
SNSなどで発言することに不安を感じることが多いのですが、最後の質疑応答の時間で、同意を表明するだけでも力になっていくと思えました。少しずつでも自分自身の意見を持って、また、アップデートしてゆけるようにしたいです。
よしさん、今日もありがとうございました。
今回のliveで、一番考えたことは、個人ひとりひとりの精神の成長の大切さです。 「大衆の反逆」の中で歴史を学ぶことの重要性を作者が切迫感をもって語られているということでしたが、それは、自分の外の世界だけではなく、自分の内の世界にも大きく関係してきていると思いました。 自分の育った環境と受けた影響はコントロールできず、ある時、自己に気づいた時にその個人的な歴史と向き合い、精神的な成長のために努力することは、大衆と世論と暴力の行きつく先のファシズムを避け、これからの時代のより望ましい世論を形成する際に必要なことだと思いました。 したがって、個人の精神の成長を促すような、生育および教育環境がこれからの時代もっと重要になると思いました。
よしさん、お疲れ様でした。ありがとうございました。
多くの人々は自分の考えをしっかり持てず、周りに簡単に流されてしまうということを聞いて、本当にそうだなと思いました。人の言っていることを、良く考えずに簡単な鵜呑みにしている人を今まで実際たくさん見てきたし、自分も流されてしまったことがたくさんあります。
そういった意味で、影響力のある大衆がおかしな考えを言うことは、悪気がなくても意外と大きな罪なのではないかと思いました。例えば、今超有名なユーチューバーのwa⚪︎○tte tv。彼らは街の人にどこの大学の人かを聞いて、その大学の偏差値を確認します。偏差値が高いとおー!となったり、専門学校は全て偏差値30扱いにしたりと、学歴主義、偏差値主義の考えをおそらく持っていて、自分より偏差値の低い大学の人を馬鹿にすることもしたりしてます。彼らはとても有名なので、それだけ多くの人を、人を大学、偏差値で見るような思想を広げていそうで、非常に罪深く感じます。
毎回自分の中で考えが進む手掛かりになる素晴らしいLiveをありがとうございます。 これからもよろしくお願い致します。(*´▽`*)
翔空
今回も現状に即した講義をありがとうございました。『大衆の反逆』と共にルソーの『社会契約論』も読もうと思います。日本の世論のかけらを担う者として何が出来るかですね。ずっと思っているのが杉並区の区長さんの一人街宣の凄さでしょうか。知性のある方を中心に話しをする。ギリシャの風景ってこんな感じだったのかなと。日本もそんな風景が増えたら変わって行くだろうなと。後ろ向きに生きないで今は自分の知性を高め尚且つ次の世代にそれらの知性が受け継がれる様に書物を守る事も大切なのではと思います。
最初の、あなたは大衆ですかというアンケートで、胸を張ってyesとは言えないけれど、反省を込めてNoとも言えず、苦しかったです。正直言って、残念ながらyesである自分を自覚できたので、自分を高める努力をしようと素直に思えました。大切な気づきをありがとうございました。
け~たん
ほぼ未読の状態で参加しましたが、本書の内容を分かりやすく整理して解説いただいたおかげで、要旨について理解することができました。 20世紀初頭、ファシズム台頭前夜のヨーロッパで書かれた本の内容が、現代日本の状況に完璧に近い形で当てはまることに戦慄し、強い危機感を覚えました。
Yasuo Nakamura
日本の現状について何か言わなければと思いつつ、自分の意見が根拠に乏しいなどの理由で発言や発信を控えることが多いのですが、歴史を学ぶことで知識を蓄えるなど、自信を持って意見を言えるようになるための素養を身につける努力を続けていきます。
民衆、大衆、国民、市民、どんな塊としての名前をつけられても、自己の意思を持ち、個人として生きていくという大切さ。個人、個人の意識と繋がりが社会を作る基礎となるということを再確認いたしました。私たちは一山いくらではないと。 いつも活力をもらえるLIVEをありがとうございます。次回も楽しみにしています。
山内郁子
「あいつは俗物だ」という表現が、かつての日本にはありました。社会階層にも収入にも学歴にも関係しない、「俗物」と非「俗物」の2つのトライブが存在していたように記憶します。他人を卑下するような物言いは如何なものかとは思うけれど、全てが俗に没してしまった現代、俗物に非ずと前を向いていた人々の存在が懐かしいです。
作者オルティガについて全く知らず、大衆の反逆と目にした時、群衆を想像しました。これはマドリードの大新聞に連載された論説だそうである。社会に有益な人びとは注視しながら読んだに違いない。yoshilog liveでは人間の存在に重要な文献が細かく現れてくる。日本は鎖国、近代にあっても他国にひけをとるそれは野蛮に映る。『歴史的教養』を放棄しない、歴史を知ろう、そして権利、人権についてどう振舞うか、味わいながら考えたいと思う。 ありがとうございました。
100年前にオルテガが見えていた世界は、まさに今のこの日本の状況にピッタリと重なっている事にまずは驚き。当時も今もそれが”見えている人”と”見えていない人”がいて、”見えていない人”がオルテガの言う”大衆”になるのかもしれない。今の日本においては、”見えていない”ではなくてそもそも”見ようともしていない”もしくは”考えたくない”という少し次元の違うところにいる気もするが・・・。
見える、見えないは特殊能力でもなく、自己の思考や経験の選択の中で拡張されていく視野?とでも言えばいいのでしょうか。その視野は結局のところ歴史や世界、世の中を「自らが知ろうとする事」という軸があるか無いかなのかな。
世論を操作し世間を支配すべく、妙な”専門家”がもてはやされ情報が偏っている日本で”見えてる人”を増やすには・・・・・本当に難題ですね。日本はもう国自体がカルト国家になっていて、無自覚カルト信者という”大衆”の暴力が既に出始めているように見えるのです。
滑り込み参加だったので、本も読んでいませんでしたが「大衆の逆襲」を知る事が出来て良かったです。終了後、本屋で早速探しましたが無かったので結局ネットでポチりました。
ツイッターを見ない日があると、告知を見逃すんですよね。 後から知って、参加したかった・・・となる事がよくありまして、Yoshilog Live Spaceに入ればいいのだな?という事をようやっと理解して、今回直前に登録して参加出来ました。もっと早く気づけば良かった!次も楽しみにしています。
結局、人間は古今東西、愚かなる生き物だという事を、100年前の書からも伺い知れた。 一つ解らなかったのが、貴族の件。 現代日本人の自分には貴族が何なのか、今一つピンとこないのだが、いわゆる「特権階級」「身分制度」「差別化」「血筋」 多分この辺の諸々を持っている人々の事を指していて、その対局にあるのが大衆というのがオルテガ氏の分類なのだろうか。 (理想は置いておく) 歴史は幼稚な大衆が世の中を動かして作られると。 ごめんなさい、もう一度聞き直します…
Roux
歴史に学ぶことをしないのは、やはり害悪である、という意味のことをオルテガも言っていて、とても腑に落ちた。中世の人間は中世の人間なりに、帝国主義の時代の人間は帝国主義の時代の人間なりに、その時代時代で、そこから過去に遡って学ぶ必要があった。
21世紀も5分の1が過ぎた現在を生きる我々は、そこからすべての過去に遡って学ぶ必要がある。そうする限り、歴史が進めば進むほど、人間は賢くなっていなければならない理屈。
過去に比べると発展した科学技術、という意味だけではなく、哲学や思想、政治経済、社会の様々な仕組み… あらゆるものがそうなっているはず。人間は不完全だからこそ、過去に立ち返り、同じ過ちを繰り返さず、右肩上がりの文明の発展に邁進してきた存在だったのだと思う。
人は自分の生きてる時代が常に文明の最到達点。その観点から、オルテガの言っていることは新鮮だった。100年前に既に、こんなことを言ってる人がいたのだ、と。
「大衆の反逆」が出版された時点での未来が既に過去になった現在、過去の過ちを追い払わず向き合おうとする試みに比べて、無視したり、さらには修正したりしようとすることがいかに愚かな試みであるかは、際立って理解されるところだと思う。「歴史は繰り返す」という言葉が肯定的な意味合いで使われることも、むしろ少数であると思われるし。
オルテガのいう大衆に対する歯がゆさは個人的に、ずっと考えの中にある。デモクラシーは衆愚政治、というパラフレーズは、一見「意識高い」人々の間にも通用する。ことの本質よりも、プレゼンテーションやレトリックで人の関心を引き付けた方が勝ったり評価されたりする現象は日本でのみならず、さまざまに目にする通り。
しかし、自分の言ってることの正当性を訴えたり、相手の不備を突いたりすることが「自然に伝わる、分かってもらえる」はないので、マスでもマイクロでも、コミュニケーションは難しい、と思うところでもある。言うところの大衆が一人の個人、政治的には一有権者として世論の形成に同じだけ参画するのは、一人一票と決まっている投票行為と違い、時間や場の制約があるのが厳しい。
暇か、あるいは1レス30円だかのバイトで一日中ネットに張り付いていられるネトウヨ、広告代理店やその手先、なんかの声が(少なくともネットでは)大きく聞こえるのが致し方ないのがつらい。こういう人達のように、経済状態がよくないせいで人々の発想や行動がどうしても不健全な、変な方向に行ってしまっているのも、日本の近代史に同じ現象を発見できそうで、ここでも歴史に学ぶ必要が出てくる。
日本がこれをしないのは戦後の刷新が徹底してなくて、夢よもう一度、と考える人々が未だ「貴族(悪い意味での)」として国家の中枢にいるから、であるのは間違いない。ここを修正するだけで100年かかりそうである。オルテガの本を読んで思ったのは「日本の歴史はヨーロッパに比べると100年遅れている」だったので、この認識で合ってそう。
今回もありがとうございました。そして、YoshilogLiveも、今回でもう50回。いつもありがとうございます。
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