これは、Ray of Letters メンバーシップのメンバー限定記事です。詳しくは下記ボタンをクリックして、案内をご覧ください。
目次
- 『アルジャーノンに花束を』再読のきっかけ
- 「知能と人格」の思想史
- 白痴のチャーリィ
- 『アルジャーノンに花束を』の文体
- なぜ「白痴」という言葉を使うのか?
- 悪意のない世界
- 天才になったチャーリィ
- IQ もしくは「世界との距離」
- 「知」の喜び
- 世界の幻滅
- チャーリィの恋愛
- チャーリィの覚醒
- 喪失の始まり
- 再びバカになるチャーリィ
- 知能はいったい人間に何をしたのか?
- 最後の「けえかほうこく」
- 後記
『アルジャーノンに花束を』再読のきっかけ
こんな、誰でも読んでいるような本を、なぜ今さら取り上げるのか。
理由の一つは、私が思う「誰でも読んでいる」が、すでに事実から遠ざかっている気がするからだ。
ダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』の翻訳版を日本で最初に出版した早川書房によれば、日本国内累計販売数は400万部を突破したという(2025年)。初訳が出たのは1978年(昭和53年)だから、約半世紀かけて読まれてきた計算になる。しかし、これを「誰でも読んでいる本」と感じるかどうかは、どの時代を生きたかによって大きく異なるだろう。
私自身がこの本を読んだのは、翻訳が出て間もない頃、おそらく40数年前だ。当時は「みんなが読んでいる本」に近かったかもしれない。しかし、今はたぶんそうではない。
一般にはSF作品として分類されることも多いが、私はむしろ、極めて純度の高い文学として読んだ。その余韻をどこかに残したまま、今まで生きてきた気がする。
では、なぜ今になって突然、この本を思い出したのか。
理由はいくつかある。
⑴ 世界規模で目撃している「悪」の顕在化とも言える現象。⑵ 日々の報道で目にする、日本社会の「クズ化」としか言いようのない現象。⑶ 人工知能による社会侵食と、それに驚くほど無防備な人間。そして、⑷ 極めて個人的なことだが、高齢化とともに感じ始めた自分自身の知能の劣化。
一見ばらばらに見えるこれらが、私には同じ問いを投げかけているように思える。それは、
知能と人格は、どのような関係にあるのか、という問いだ。
人間は古くから、この単純そうで、驚くほど厄介な問いを考え続けてきた。
『アルジャーノンに花束を』は、当時の言葉で言えば「白痴」と呼ばれた主人公チャーリーが、実験的手術によって突然天才的知能を得る物語だ。アルジャーノンというのは、同じ手術を受けたネズミの名前だ。アルジャーノンは驚異的な知能の発達を見せ、スーパーネズミになった。
しかし、急激な知能の変化に対して、感情的成長は容易には追いつかないチャーリーは、人間の複雑さ、残酷さ、情欲、孤独、そして自分自身の中に生き続ける「白痴」のチャーリーを発見する(ここには「自我の分裂」というダニエル・キイスがその後追うことになるもう一つの主題が示唆されている)。しかし、やがてやってくる結末はあまりに切なく、その時の胸が引き裂かれる気持ちが半世紀も後になって蘇ってきたことに自分自身ちょっと驚いている。
知能は人間の何を変え、何を変えないのか。あるいは、知能と人格は、どのような関係にあるのか、という問いを『アルジャーノンに花束を』は私たちに残して行った。
「知能と人格」の思想史
ほとんどの大人は、「知能が高いことが必ずしも人格の高潔さを意味しない」ことを経験的に知っているだろう。しかし、おかしなことに、「知能が高い人=えらい人」のような通俗信仰も広く流通している。知能と人格の関係について、いったい人間はどう考えてきたのだろうか。
[1] 狩猟採集社会:知能は生存技術
記録があるわけではないが、狩猟採集社会では、記憶・状況判断・他者心理の理解・欺瞞能力・協力形成などの知能は生存のために最も必要な能力だったであろうことは想像に難くない。つまり、知能の高い者ほど生き残る確率は高かっただろう。しかし、それが人格の高さと関係したかどうかを判定する情報は残っていない。
[2] 神話:知性と道徳性の分離
しかし、神話に、その痕跡を読み取ることが可能かもしれない。たとえば、ギリシャ神話のオデュッセウスは英雄だが、狡猾で、嘘がうまく、騙す能力の高さで生き延びる人物として描かれる。つまり、知能は道徳性と必ずしも一致しないという感覚が、すでに現れている。
[3] ソクラテス:知徳合一
ところが、ソクラテスはこれをひっくり返した。彼は極端に言えば、「善を知る者は善を行う」と考えた。これが知徳合一(virtue is knowledge)だ。つまり、「悪を行う人は、本当は善を知らない。なぜなら、人は本当に善を理解すれば、それを選ぶはずだから」という考え方だ。「そんなことがあるか」と即座に否定する現代人は多いだろう。今の感覚で言えば、ソクラテスの立場はかなり強い知性主義と言える。
[4] プラトン:哲人王
プラトンになるとさらに進み、「最も知的な者が支配すべき」と考えた。これが有名な哲人王(philosopher king)思想だ。この思想は、「知性が高ければ、真理を見る・欲望を制御できる・公共善を理解する。だから、人格も優れる」と考える。漠然と、このような感覚を持っている人は現代でも少なくないだろう(通俗信仰)。だから、それを積極的に悪意を持って利用すれば、大衆を騙すことにも使える。これは実は近代テクノクラシー(technocracy)の祖先でもある。その一方で、これを否定する現代人も少なくない。なぜなら、歴史は人類が「頭の良い独裁者」を大量に生んで来たことを示しているからだ。
注:「近代テクノクラシー(technocracy)」とは、政治的な判断や社会の運営を、選挙で選ばれた政治家よりも、専門知識を持つ技術者・官僚・科学者・経済専門家に委ねるべきだとする考え方です。大雑把に言えば、「政治を、専門家に任せよう」という発想。
[5] アリストテレス:知性と人格の区別
アリストテレスは、知を、知的徳(intellectual virtue)と倫理的徳(moral virtue)に分類した。そして、彼は、前者(知的徳)を理論知・技術知・判断力に、後者(倫理的徳)を節制・勇気・公正に分けた。つまり、知的徳が優れていても、倫理的徳が劣る人間も存在し得ることを示す。言葉を換えれば、「頭が良くても人格が良いとは限らない」という現代的直感に近くなる。
[6] 孔子:知識だけでは足りない
中国思想には、西欧とは独立した別ルートで知能と人格について考え尽くした跡が残っている。日本の大衆道徳の多くも、儒教にルーツを持つ。例えば、これもその一つだろう。孔子は、学ぶだけでなく、人格修養(徳)が必要だと説く。『論語』の「君子喩於義、小人喩於利(君子は義にさとり、小人は利にさとる) 」は、「君子(人格者)は「正しさ」を基準に判断し、小人(視野の狭い凡人)は「損得」を基準に判断する」ということだ。知識や能力だけでは人格は形成されないという“常識“をつい最近まで日本人は持っていた。しかし、現代日本を席巻する「お得主義」は、まさに小人の思想だろう。
[7] 荀子:賢い悪人の危険
荀子はもっと厳しく、人間は本性として利己的である(性悪説)と考えた。だから、教育と制度が必要と説く。つまり、知性の高さが、善性の高さを決めるものではない。むしろ、「賢い悪人は危険である」と考える。
[8] 韓非子:制度で縛る
法家はさらに現実的だ。韓非子は、人間を基本的に信用しない立場をとる。知能の高い臣下ほど危険であり、人徳ではなく、制度と法によって統治すべきだと考えた。知性への不信が、西欧哲学とは別ルートの法治主義として現れた。
[9] キリスト教:知性への警戒
キリスト教的伝統では、知性と人格の関係に対して、古代ギリシアとは異なる緊張感が現れる。その源流は『創世記』のエデンの園の物語にある。アダムとイブは、「善悪の知識の木」の実を食べることで羞恥、自意識、不安を知り、楽園を追放される。この物語で問題とされたのは、知識そのものではなく、人間が神のように善悪を自ら決定しようとした「傲慢」であった。そのため、キリスト教世界では、知性は人格を高める力であると同時に、人間を傲慢や堕落へ導きうる危険な力としても捉えられた。知ることは必ずしも善へ直結せず、むしろ善悪の両方を開く契機になりうるという感覚が、後の西洋思想で繰り返し問い直されることになる。
[10] 啓蒙思想:理性への信頼
18世紀の啓蒙思想では、理性への信頼が再び強まる。カントらは、教育と知識を通じて理性を発達させれば、人間社会は道徳的にも進歩できると考えた。「賢くなれば善くなる」という方向性が再び強まったのである。ここから、近代西欧の道徳的優越性という世界史的物語の誕生まで一直線であったこと、しかもそれが21世紀の現在に至るまで支配的な物語として生き残り、西洋の優越感と非西洋の劣等感という知的硬直を再生産し続けてきたことを思い出す読者も少なくないだろう。啓蒙思想は近代への道を啓く決定的な役割を果たしたが、同時に人間の(西欧の)傲慢と(非西欧の)卑屈を固定させる威力を持っていた。
[11] 20世紀:理性信仰の危機
啓蒙思想が理性信仰を強化したにも関わらず、20世紀には、ナチズム、原爆、官僚制による大量虐殺、生体実験などによって、高度な知性や教育が必ずしも人格の高さを保証しないことが露わになった。高学歴の医師、法学者、官僚たちが合理的に暴力へ加担したことで、「知性と人格は別物ではないか」という疑いがこれまでにない破壊的な力に増幅されて戻ってきた。
[12] 21世紀:「悪」の顕現
イスラエルによるパレスチナ人のジェノサイドをストリーミングで世界中の人々が視聴し、世界各地でジェノサイドに対する抗議行動が巻き起こる一方で、高度な教育を受けた政治家、法律家、学者、ジャーナリストたちが、それを法、人道主義、安全保障、専門知といった言葉によって正当化する物語を拡散する。エプスタイン文書によって、富豪層・知識階級・権力層の、今ではエプスタイン階級と呼ばれる世界的ネットワークによる幼児・子どもの性的搾取が、もはや単なる陰謀論ではなく、公共の知識となった。ほんの二つの例に過ぎないが、もはや「知能が高ければ、人格も高い」と真面目に主張する者の知能が疑われるという事態が現出している。
上記は極めて主観的な叙述に過ぎない。もちろん思想を計量するのは不可能な話なのだが、私の個人的なイメージを図示すると以下のようになる。つまり、私の頭の中にあるイメージは「高知能=高人格」という考え方は、長い時間をかけて「知能と人格は無関係」という方向に動いているということだ。しかし、これを鵜呑みにしてはいけない。私の主観がそんなイメージを作ったという以上の意味はない。

*読んで良かったなと思ったら、投げ銭もお願いします



Comments