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「女性の歴史」は、探求の書であって、もとより、政治的イデオロギーの宣伝の書でも、希望的観測の書でもない。これは、「母系制の研究」と「招婿婚の研究」に、根拠と出発点とを持つ、私のあたらしい学説をつらぬいた日本女性全史であるが、独自の学説のゆえに、日本史批判とも、世界史・人類史への提言ともなっている。
これは、三〇年にちかく、「われらいかに生くべきか」をひとすじに探求してきた一女性学究の、同時代の友人や後にくるひとびとにささげる、ただ一つの貧しい小さな花束である。
私の齢はすでに傾いており、したがって私はこの書をはじめから遺書のつもりで、いうべきこと、いいたいことを書いた。そして、いまいくらか満足して筆をおくことができたことをよろこぶ。
脱稿の日世田ケ谷の草屋で 高群逸枝
高群逸枝『女性の歴史(上)』
高群逸枝という女性
この本に出会ったのは最近のことです。福田英子の『妾の半生涯』 の記事を書いた時に、日本の明治期の女性解放史に興味を持ち、その後色々調べ始めて、与謝野晶子、平塚らいてう、山川菊栄、市川 房枝らと共に、高群逸枝の名にもしばしば出会いました。おそらく高校の日本史の教科書にも出てきたでしょうが、詳しいことは何も覚えていないし、彼女の作品は一冊も読んだことがありませんでした。今挙げた名前を生没年で時系列に並べると、彼女たちが生まれた時期がだいたい30年くらいの間に集中しているのが分かります。
福田 英子(1865年/慶応元年-1927年/昭和2年)
与謝野 晶子(1878年/明治11年-1942年/昭和17年)
平塚 らいてう(1886年/明治19年-1971年/昭和46年)
山川 菊栄(1890年/明治23年-1980年/昭和55年)
市川 房枝(1893年/明治26年-1981年/昭和56年)
高群 逸枝(1894年/明治27年-1964年/昭和39年)
なんとなくのイメージで、みんな大昔の人のように思っていましたが、上記6人のうち4人は日本の敗戦後もかなり長く活躍されていたのが分かります。市川房枝さんに関してはまだご存命中にテレビで話されている姿を見たことがあるのを覚えています。他の3人の方については、まったくなんの記憶もありません。
僕は、現在と過去のある時の時間的距離を測る時に、自分が聴いていた音楽を使わないとピンとこないので、4人の方の没年にヒットしていた曲を一曲ずつ取り上げて、確認してみました。
◾️平塚 らいてうの亡くなった1971年にヒットした曲:
George Harrison / My Sweet Lord
◾️山川 菊栄の亡くなった1980年にヒットした曲:
Another Brick in the Wall / Pink Floyd
◾️市川 房枝の亡くなった1981年にヒットした曲:
Woman / John Lennon
◾️高群 逸枝の亡くなった1964年にヒットした曲:
Beatles / A Hard Day’s Night
みなさん、半世紀くらい前に亡くなられていますが、驚いたことに、感覚的には「つい最近」まで活躍されていたんだと思いました。
さて、高群逸枝の『女性の歴史』第1巻は、昭和29年(1954年)、彼女が60歳の時に出版されました。その後翌年の昭和30年(1955年)に第2巻、昭和33年(1958年)に第3巻と第4巻を出版し、『女性の歴史』は完成します。その時、彼女は64歳です。
高群は、昭和6年(1931年)37歳の時に、研究の目標を以下の5部からなる「大日本女性史」とし、それをライフワークとして邁進し始めます。『女性の歴史』はその最後の3つの部分を担うものです。
- 「母系制の研究」
- 「招婿婚の研究」
- 「古代女性史の研究」
- 「封建女性史の研究」
- 「現代女性史の研究」
彼女はライフワークに照準を合わせた頃、すでにほとんど外出しない生活を続けていたのですが、この段階で自ら厳しい決まりを設けていっそう排他的生活に徹します。訪問客に会うことも辞するような日々を送り、一日平均十時間の研究という日課をまもり研究に専念し、ついに昭和33年(1958年)、ライフワークを完成します。
彼女のライフワークは、以下のような出版物として我々にも手が届くところに残っています。
第一部:『母系性の研究(上・下)』、昭和13年(1938年)。
第二部:『招婿婚の研究』、昭和28年(1953年)
第三部:『女性の歴史(上・下』、昭和29〜33年(1954〜58年)
彼女は小さい頃から「不争」「求知」「人間愛」「多感」等の資質をあらわす子供だったようですが、大正2年(1913年)に熊本女学校4年を19歳で終えた時、家計援助を志して、自ら退学します。弟らの学資援助のために熊本市にある鐘渕紡績工場の女工として働き始めましたが、翌年には隣村にある尋常高等小学校に代用教員として採用されます。このあたりの経緯は、約30年前の慶応元年(1865年)に生まれた福田英子とそっくりです。大正になっても、江戸時代とあまり変わらなかった日本もあったということです。
大正7年(1918年)、24歳の高群は、無銭四国巡礼旅行を行い、九州日日新聞(現熊本日日新聞)に『娘巡礼記』百数回を書いたので、彼女の文才を認める人がいたのでしょう。
大正10年(1921年)、高群27歳の時に長編詩『日月の上に』を叢文閣から、詩集『放浪者の詩』を新潮社から刊行し、その後、昭和6年(1931年)の37歳の時にライワークに取り掛かるまで、彼女の詩集が多く出版されます。
彼女は、論文『私の生活と芸術』(大正11年/1922年)、随筆『震災日記』(大正12年/1923年)、論文『恋愛創生』(大正14年/1925年)、小説『黒い女』(昭和5年/1930年)、論文『女教員解放論(昭和6年/1931年)など多くの論文、随筆などをライワフークの開始前に書いています。
彼女のライフワークの第一弾『母系制の研究』が出版されたのは、昭和13年(1938年)なので、日本が日中戦争にのめり込み始めた時です。前年の昭和12年(1937年)7月に盧溝橋事件、12月に南京虐殺事件、昭和13年4月には国家総動員法が公布され、昭和14年(1939年)5月にノモンハン事件の起きた、そんな時代です。その頃も今も社会的通念の基礎をひっくり返すような『母系制の研究』がよく出版できたものだと思いましす。
実際、高群逸枝は1946年、つまり敗戦直後に書いた小文『女性史研究の立場から』で次のように言っています。
私の経験からいえば、女性史なども、なにか社会や男性に反抗する危険思想ででもあるかのように思われがちで、ずいぶん不愉快な圧迫や俗見とも戦わねばならなかった。
高群逸枝『『女性史研究の立場から』
私は、昭和13年に、足かけ8年の労作になる女性史第1巻を「母系制の研究」として世に出した。この題目など、とくに、現行家族制の父系思想からみて、好ましくない印象をもたれたことも、うなずけないことではない。私は江戸時代の儒者たちが、天照大神の男性説を唱えねばらなかった心持がいまだに残って学問兼ん球が妨げているのを残念に思う。
上梓に際し、出版書肆からは、わざわざ当局の注意事項が伝達された。それはかなり非常識なものであった。
やはり、少なくとも不愉快な思いをすることはあったのでしょう。『女性の歴史』を最初読み始めた時、その文中に他の部分とちょっと異なった調子で書かれているところがあることに気が付きます。下がその部分ですが、彼女は、この書が当時の社会に与えるであろう衝撃を十分意識していたことが分かります。
さて、私は、ねがわくは読者の協力によって、この書をたのしく進めていきたい。ともにこの書を生活し、味わい、そしておおらかな気持で、この書をつくりあげていきたいという切なる望みを、ここでうったえたいとおもう。そうでなければ、これからのこの書の進行は、おそらくはひとびとの反撥心をそそるたぐいのことが、あまりにもおおすぎるであろうために、とても順調にはいくまいと気づかわれるから。
高群逸枝『女性の歴史』
しかし、そういう戦前においても、高群の研究に資金援助をする人/団体がありました。以下の二つは戦争真っ只中の資金援助の例です。
◾️昭和14年(1939年):財団法人服部報公会の研究費を受ける(主査:穂積重遠)。以後あわせて3回。
◾️昭和16年(1941年):財団法人啓明会の研究費を受ける(主査:辻善之助)。
穂積重遠と言えば、東京帝国大学の法学教授、最高裁判所判事を歴任した日本における家族法の父と呼ばれるとても有名な人です。どういう経緯で高群逸枝を援助することになったのか分かりませんが、当時の急激な軍国主義化に対する彼なりの抵抗のカタチの可能性もあるかもしれないと夢想するのは楽しいことです。
辻善之助も、東京帝国大学の教授で、歴史学の大家としてとても有名な人です。彼は古今東西の事象を渉猟して展開する高群逸枝の研究の真価を評価できる数少ない理解者だったのではないだろうかと思います。
戦後も、彼女は資金援助を色々なところから得たようですが、以下はその例です。
◾️昭和23年(1948年):婦人問題研究所から寄付研究資金を受ける(十数年連続)。
◾️昭和29年(1954年):文部省科学研究費を受ける(以後毎年度5回)。
◾️昭和32年(1957年):アジア財団から研究費を受ける(翌年と2回)。
ちょうど『招婿婚の研究』と『女性の歴史』が完成する頃に文部省が5年連続で助成金を出しています。世間で受けそうな、あるいは売れそうな研究ではないが、そういうところに文部省がお金を出したおかげで、今こうやって貴重な研究成果を一般人が手にすることができるのだから、当時の文部省にはいくら感謝してもしきれない。決して「儲かる研究」ではない、このような研究は今の文科省でどのような扱いを受けるのでしょうか?
高群逸枝は、大正8年(1919年)、25歳の時、3歳下の橋本憲三と結婚しました。夫に夫婦の尊厳を求め「同志的夫婦」の希望を持ちますが、病気に悩まされる期間が長かった。夫の橋本憲三は高群の生涯のアシスタントとしての役割を果たしました。昭和39年(1964年)高群逸枝70歳で死去。自伝『火の国の女の日記』第三部をもって絶筆となりました。未完部分は遺言により夫憲三が補結し、翌年刊行されました。
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