このタイトルに異論が多いのは分かっている。説得しようなんて気は毛頭ないので、子育て”成功者”は読まずに撤退して頂くことをお勧めする。やっちまったという気持ちが少しでもある人は、最後まで読んで頂ければ、意味は通じる、かもしれない。
もっと若い頃だけど、ある時期、同窓会って残酷だなあと思うようになった。といっても、何百人も集まる公式の同窓会というものにはほとんど参加したことがない。それでも2、3年に一回の帰国時に同級生の小さな集まりに参加することはあった。
面白いもので、そんな集まりの話題のトレンドというものがある。ちょうど年齢に沿った話題というものだろう。30代の頃は、誰それが結婚したとかどうとかの話が多かったような気がする。転職とか昇進とかで熱く語るのが40代、体力の衰えとか肩叩かれ後の再就職先が話題になるのが50代、年金と自分の介護が話題になるのが60代。
しかし、それと並行して子どもの話題は一貫してちょろちょろ出てくる。どこそこの大学に行ったとか、どこそこに就職したとか、なんか有名になったとか、結婚したとか、そして孫が出来たとか。
まだ自分に子どもができる前、30代の頃だけど、久しぶりに帰国した時にそんな集まりに行ったことがある。たぶん20人近く参加していた。覚えている同級生は半分もいなかったけど、いちいち”あなたはどなたですか?”なんて訊かずに、それなりに楽しそうに過ごせるくらい僕も大人になっていた。
その中に高校生の頃、明るい子だという印象が残っている女子が一人参加していた。その場の周りの賑やかな話の中で、その子はあまり喋っていないような気がした。なんか気になったが、20年くらい会ってもいないのに干渉するのも変な気がして、ただその場の成り行きに乗っていた。
詳しい話ははしょるが、だいぶ後で、彼女が子どものことで長いこと何かしんどい思いをしてるということを聞いた。それを聞いた時、一瞬で彼女のあの静けさが理解できたような気がした。それについて訊いたわけでもないので、本当のことはまったく知らないが。
同窓会のような席では、明るい話が盛り上がる。まるでフェイスブックやインスタグラムの実写版のような気がする。子どもの話というのは、そういう盛り上がるカテゴリーに入っているのだろう。すごいね〜という花火があちこちで上がってどんどん加熱していく。子どもの話が絶対的善として君臨する、その火花の中に彼女は座っていたのだ。
子どもの話をするのはやめようと僕は思った。訊かれたら、捻くれ者と思われない程度に答える。それでいいではないか。自分の人格と子どもの人格は全く別物。いちいち他の人格を自分の話のように持ち出す必要はない。
自分の子どもができてから、全ての子育ては失敗でなければいけない、と思うようになった。自分の失敗の言い訳と言われるのは分かっている。しかし、考えれば考えるほど、これが確信になっていく。
親が成功したと思う子育てってなんだろう?想像しただけで恐ろしくなる。親の思った通りに育つってことか?それは”育たなかった”ということではないか。あなたが親としよう。あなたの限られた知識、限られた経験、限られた知性、限られた能力、限られた想像力、限られた教養、限られた情感、限られた運動神経、限られた芸術的センス、そんな小さな世界の中で成功と思ったところで、この世の無限の可能性の中では、塵(チリ)のようなものではないか。成功した子育てとは、あなた自身の限界の中に小さくまとめることに過ぎない。
親の知っている成功の世界から転げ落ちること、それが親からは失敗に見える。しかし、それは本当は、子が親の小さな世界を打ち破って飛び立つってことだろう。その子は、あなたの知らない世界、あなたのコントロールが効かない世界、あなたがどうあがいても近づけない世界、そこに自分の世界を作り始める。子育てに、それ以上の何を望むのか?
失敗の恐怖に顔がひきつった親がいると、子は自分が失敗作だと思ってしまう。世界の扉にかけた手を引いてしまう。そこにこそ世界の入り口があるのに、親の期待(世間の規格)という本物の失敗へ後退りしてしまう。なんというもったいないことか。
うちの子は出来が悪くて、みたいなことを言う親に実際に何人も会ったことがある。
それは良かった!
と言うと100%の確率で皮肉だと思われる。いや、僕は本心でそう思っているのだ。あなたのせせこましい世界の価値観の中の出来・不出来なんてどうでもいい話だ。その子は素晴らしい人生を手に入れ始めたのだ。
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