【Caitlin’s】ローラースケートの助けを借りてガザを這う6歳の切断患者についての瞑想

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Xに流れてるくるガザの映像はしばしば見るのも耐え難く、飛ばしてしまうことがある。ケイトリンさんの今回の記事は彼女自身の耐え難い思いが伝わってきて、それを考えることが耐え難かった。

ケイトリンさんの文章に、自分がまだ30代前半だった頃、お気楽な”先進国”から土漠の荒野にやってきて初めて現実の悪に直面した頃を思い出した。頭が爆発しそうな憤りと地面にのめり込むような悲しみで自分は気が狂うのではないかと思いながら毎日仕事をし、生活をしていた。その後遺症が今も残っている。

同じ環境で、信じられないような人間の美しさで自分の身体がばらばらに崩壊するような経験もする。感情の中にある全てのメーターが両極になんども振り切っていた。それが、日本、アメリカ、イギリスで生活し、リアリティのない世界に不満を持っていた自分がやっと見つけたリアリティだった。今振り返れば、どこかで辻褄を合わせようとする試みの一つが『カブール・ノート』だったと思う。

最近訳したばかりのハン・ガン氏の『ノーベル賞受賞記念講演』読まれた方は直ぐに気が付かれたと思うが、このケイトリンさんの記事には、まったく同じテーマが語られている。現実に向き合う2人が同じところに到達するのは当たり前のことなのかもしれない。が、あまり顕にして先入観を与えたくないので、これについてはこれ以上書くのはやめておく。

『Caitlin’s Newsletter 日本語版』はメンバー専用記事だけど、今回は全文開放する。

[原文情報]
タイトル:
Meditations On A Six Year-Old Amputee Crawling Through Gaza With The Help Of A Roller Skate
著者:Caitlin Johnstone
配信日:Dec 15, 2024
著作権:
こちらをご覧ください。
原文の朗読:
こちらで聴けます。

ガザの悪夢を目の当たりにすると、日々そこで目にする恐怖のなかでも、特に心に残るものがある。今日、足を切断された6歳のパレスチナの少年が、片手にローラースケートを装着してテントキャンプ内を這っているビデオを見た。そして、それに私を破壊された

それは90年代に登場したインライン・スケートのひとつだった。私たちはローラー・ブレードと呼んでいた。西洋の少年たちは、喜びと笑いに満ちた夏、膝の皮と草の染みにまみれながらローラーブレードで遊んだものだ。今、モハマド・サイードという名の少年が、土の中を這って歩くのにローラーブレードを使っている。なぜなら、彼の足は、おそらく自分たちが小さい頃にインライン・スケートで遊んでいたであろうイスラエル人が発射した西側軍の爆薬によって吹き飛ばされたからだ。

We are the terrorists. https://t.co/Od7U4hW7E6— Caitlin Johnstone (@caitoz) December 14, 2024

X投稿の訳:
Caitlin Johnstone:
私たちはテロリストだ。
Sarah Wilkinson:
イスラエル軍の爆撃を受け、両足を切断されたガザのパレスチナ人少年が、ローラースケートでテントの間の険しい地形を移動している。

この大量虐殺はあまりに長く続いているため、ガザに住む四肢を切断された子どもたちは、手足のない生活を乗り切るための戦略を学んでいる。

最近、行われた調査では、ガザの子どもたちのほぼ全員が、自分の死が迫っていると感じており、調査対象の半数が「死にたい」と答えたという。

しかし、彼らの生活は続いている。しばしばモルヒネも麻酔薬もなしに切断され、手足を失ってさえ、彼らの生活は続いている。泥だらけのテントキャンプを這いずり回りながら、彼らは生き続ける。毎日を生き抜く道を見つけるのだ。

もしそれが、あなたが生きている西側の権力機構が積極的に人々に対してやっていることではなく、ただ受動的に目撃していることであれば、あなたを感動させるかもしれない。アメリカ中央集権帝国の影の下で暮らす私たちにとって、パレスチナの人々の不屈の精神についての感動的な話よりも、もう少し感情的に複雑な話である。というのも、これは、私たちがいかにしてこの事態を食い止めることができなかったかという話でもあるからだ。

モハマド・サイードがローラースケートの助けを借りて足の残根で土を這う姿を見るとき、私たちは自分たちの文明を映し出しているのだ。完全な道徳的破綻の大量虐殺的ディストピア。これが私たちの姿なのだ。これが、私たちが支配者に私たちを変えることを許してしまったものなのだ。

ああ、ムハンマド、本当にごめんない。こんなことになるのを許してしまって。あなたの足が奪われたこともごめんなさい。その上に他のすべてのもの、おそらくあなたのご両親、あなたの兄弟姉妹たち、愛する人たちもきっと、そして明らかにあなたのお家もあなたの子供時代も、すべてのものが奪われたことも、本当にごめんなさい。

私は今、読者にもモハマド・サイードにも、私自身の悲しみ以外には何も申し上げることはない。自分の心を床に吐き出し、通行人に滑らないように注意し、胸にぽっかりと空いた穴の上に涙を流すことしかできない日もある。

どれも正しいことではないし、正しいふりをする気にもなれない。前向きに考えようとも思わないし、すべてが良くなるとも思わない。ただ酷いだけのことは存在するし、それを酷いと感じてもいいんだ。感情は感じるためにあるものだから。それは悲しく、憤るべきものであり、恥ずべきものであり、クソであり、それ以外の何ものでもない。

私たちは、息を呑むような美しさと、唖然とするような残忍さを併せ持つ世界に生きている。真の怪物に支配された社会の中で、あらゆる分子の背後に隠れている愛の爆発。

私たちはこれらのパラドックスを抱くのに十分な大きさを持っている。私たちは、創造の威厳と大量殺戮のガッツポーズを感じるのに十分な大きさを持っている。湿った、ジューシーで、ドロドロした仲間への愛と、私たちが互いにどれだけ残酷になれるかという恐怖。この奇妙な青い惑星での生活の爽快感と、ここで物事を少しでも良くしようとして失敗に次ぐ失敗を続け、押しつぶされそうな悲しみ。

この世界では、善と悪の両方が繁栄することを許されている。明らかに。私にはこれに対する答えも奇跡の治療法もない。私たちはまっとうな人間であるために最善を尽くし、毎日を乗り切る。私たちはスケート靴を拾い、這い続ける。

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