【近現代史-04】イランを救おうとした日本人

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昔、イランを救おうとした1人の日本人がいた。そんなに遠い昔ではない。1952年、日本が独立主権国家として再出発したと信じた頃の話だ。

目次

  1. モサデック
  2. 国民戦線の結成(1949年)
  3. 石油国有化法(1951年)
  4. イギリスの干渉(1951年)
  5. 出光佐三という人物
  6. 作戦の決行:日章丸事件(1953年)
  7. イギリスの反撃と出光佐三の勝利
  8. 二度目の訪問:「ジャポン、ジャポン」
  9. 1953年イラン・クーデター
  10. CIA文書の公開(2013年)
  11. 歴史的な意味(2026年)
    • 政権転覆のプロトタイプ
    • 明治期にあった日本留学ブーム

モサデック

その頃、イランにはモハンマド・モサデックという男がいた。彼は名門貴族の出身で、スイス・フランスで法学を学んだ知識人政治家だった。カージャール朝時代(1796 – 1925)から政界に関わり、一貫して外国勢力の干渉排除と立憲主義の擁護を訴えてきた。清廉で妥協しない姿勢から民衆の信頼を集めており、既存の政治家とは一線を画す存在だった。

国民戦線の結成(1949年)

モサデックは1949年、複数の政党・団体を糾合して国民戦線(Jebhe Melli)を結成した。これは特定のイデオロギーに縛られた党というより、石油国有化・立憲政治・外国干渉排除という共通目標のもとに集まった広範な連合体だった。世俗的民族主義者、自由主義者、一部の宗教勢力(ホメイニーの師にあたるカーシャーニー師など)も加わり、幅広い支持基盤を持った。

石油国有化法(1951年)

国民戦線は1950年の議会選挙で議席を伸ばし、モサデックは石油委員会の委員長として石油国有化決議を強力に推進した。当時の首相ラズマーラーが国有化に反対したが、1951年3月にイスラーム過激派組織「フェダーイヤーネ・イスラーム」によって暗殺される。この暗殺によって国有化反対派の象徴が消え、議会の空気は一変した。

1951年4月、議会は石油国有化法を可決し、モサデックはモハンマド・レザー・パフラヴィーから首相に任命され、モサデック政権が成立する。ところが、この石油国有化が気に入らないイギリスはイランに干渉を始める。ここで、1人の日本人のイランを助けるための活躍が始まる。

イギリスの干渉(1951年)

モサデックによる石油国有化(1951年)の後、イギリスはイラン近海に軍艦を派遣し、イランに石油を買い付けに来たタンカーの差押え、保険停止、裁判などの手段で海上封鎖に近い圧力をかけた。イランは石油があっても売ることが出来ず、深刻な経済危機に陥った。

出光佐三という人物

その頃、出光興産社長の出光佐三は、国際的な石油カルテルへの対抗を続けていた。アメリカからの輸入をメジャーに阻まれ、パナマ運河を越えてベネズエラから輸入するという迂回策もふさがれた後、「第三の矢」としてイラン石油の輸入を考えていた。日本もまだ独自のルートで石油を自由に輸入することが困難な時代だった(サンフランシスコ講和条約が発効するのは、1952年4月28日)。

英国は、イランの石油は盗品と主張し、石油を運べば、船を差し押さえる、裁判を起こすと恫喝していた。

しかし、出光佐三はイランへの経済制裁に国際法上の正当性はないと判断し、日本政府との対立も覚悟しながら、極秘裏に専務の出光計助をイランに派遣してモサデック首相と交渉を行った。日本政府は事実上、黙認していた。

作戦の決行:日章丸事件(1953年)

日本が主権を回復してまだ11か月弱の1953年3月23日、出光佐三は、行き先を偽装した上で日章丸を神戸港から出港させる決断をした。無線封鎖をしながらイギリス海軍による事実上の海上封鎖を突破し、4月10日にイランのアーバーダーン港へ無事到着した。

現地ではイラン国民から熱烈な歓迎を受け、翌日の新聞には「イラン経済に希望を与えるもの」として日章丸が大々的に報道された。世界中の新聞もこの出来事を報じ、出光本社には記者団が詰め掛けた。

帰路も困難を極めた。イギリス軍の監視を避けるため、マラッカ海峡を避けて水深が浅く危険なジャワ海を通るという苦闘の航海を乗り切り、5月9日に川崎港に帰還した。

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イギリスの反撃と出光佐三の勝利

日章丸が日本領海に到達するや、アングロ・イラニアン社は即座に積荷の処分禁止を求める仮処分申請を東京地裁に提出した。

しかし裁判所は「イランとアングロ・イラニアン社の契約はイランの民法に従うべきであり、日本の裁判所の管轄外」として訴えを退け、アングロ・イラニアン社は控訴を取り下げ、出光側の完全勝利となった。

二度目の訪問:「ジャポン、ジャポン」

出光佐三は、裁判係争中にもかかわらず、懲りずに再び日章丸をイランへ向かわせた。6月7日に日章丸はアーバーダーン港へ到着。イラン側は「ジャポン、ジャポン」と歓迎しながら石油価格を大幅に値引きして日章丸を労った。

1953年イラン・クーデター

しかし、日章丸がイランの石油を買い付けを行っていた同時期、CIAとMI6は、モサデック政権を倒すクーデターを準備していた。プロパガンダ工作、聖職者・政治家の買収、暴動の組織、軍部の工作、シャーの説得を行い、同年8月19日、モサデック政権は倒された。イタリアに逃亡していたシャーがイランに帰国し、権力を取り戻し、親米路線を強化することになった。

CIA文書の公開(2013年)

このクーデターは、発生当時から、外国の関与、CIAの関与が疑われていたが、イギリス政府もアメリカ政府も完全否定していた。「イラン国内の政治的混乱」というのが、公式の説明であり、外国の関与などは陰謀論として見なされていた。

ところが、実際の作戦責任者出会ったカーミット・ルーズベルト・ジュニア(Kermit Roosevelt Jr.)が、1979年出版の回想録『Countercoup』で「CIAが作戦を実行した」「シャーを復帰させた」と書いてしまった。

その後も、マデレーン・オルブライト(Madeleine Albright)が、2000年の演説で「The United States played a significant role in orchestrating the overthrow of Iran’s popular prime minister.」と言ってしまった。

これらは、個人の証言だが、2013年になって、CIAの内部文書が公開され、そこにははっきりと「CIA orchestrated the coup.」と書かれていた。

2017年には、さらに詳細なCIA文書が公開され、作戦名(Operation Ajax、アジャックス作戦)、予算、プロパガンダ、暴動操作などが具体的に確認された。

歴史的な意味(2026年)

日章丸がアーバーダーンに初めて到着したのは1953年4月、アジャックス作戦でモサデックが打倒されたのは同年8月。つまり日章丸事件とアジャックス作戦はほぼ同時並行で起きていた出来事だった。一方では民間の日本企業がイランの石油主権を支援し、ホルムズ海峡を通過して命懸けでイラン国民を窮状から救おうとしていた時に、他方でアメリカとイギリスがその主権を秘密工作で潰そうとしていたのだ。

この事件は産油国との直接取引の先駆けとなり、石油メジャーの市場独占を揺るがす契機になったとも言われている。そして「欧米列強とは違う形で接してくれた日本」という記憶として、イランの親日感情の重要な根拠の一つとなった。

2026年の今、日本の大手海運3社がホルムズ海峡の通航を停止している状況は、70年前に日章丸がそのホルムズ海峡を命がけで通過した歴史と、痛烈な対比をなしている。

政権転覆のプロトタイプ

「イランは親日国」と言われるとき、日本側で必ず挙げられる出来事の一つが 日章丸事件(1953年)だったが、今は忘れられたかもしれない。今、政権転覆(regime change)という言葉は毎日聞くが、1953年のクーデターはまさにそのプロトタイプだったと言えるだろう。但し、半世紀以上、否定されてきたが。

このクーデターでイランに据え付けられた親英米のシャー政権はやがてイラン人自身によって倒される。それが1979年のイスラム革命だった。そして、それをもう一度倒そうというのが現在進行中の戦争の一局面でもある。

日本人がイランと敵対する理由は何もない。中東から極東まで、欧米列強の帝国主義圧力によって、総倒れになっていく中で、日本はなんとか持ちこたえた。19世紀の帝国主義は、世界に「奪う側」と「奪われる側」という冷酷なニ分割をもたらしたが、「奪われる側」に落ちかけた日本は「奪う側」に移動することに成功した唯一の国だった。この倫理的判断は別にして、なぜそれが可能だったのかは、歴史学の重要なテーマの一つであり続けている。

明治期にあった日本留学ブーム

だからこそ、19世紀後半、日本留学ブームが起こった。オスマン帝国(トルコ)からも、イランからも、インドからも、ベトナムからも、中国からも、大量の留学生が日本にやってきた。彼らは、国を奪われ、あるいは奪われかけ、祖国を救うために日本から学ぼうとした。しかし、20世紀の日本は、彼らを徹底的に失望させたのは、読者諸氏のご存知の通りだ。

このシリーズでは、日本の近現代史を世界史の中に位置付け立体的に見ることを試みている。中国(清)と日本(徳川幕府)の近現代史における相似性と日本の特異性については、【近現代史-02】清国と徳川幕府ー帝国主義の餌食と成り上がりーに書いたのでそちらも参照して欲しい。

次回は、モサデック政権の前史に遡って、その次に、モサデック政権以後、現在までのイランと日本の近現代史の相似性と日本の特異性を見てみる。

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