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目次
- 入江俊郎:「終戦ト憲法」(1945年9月18日)
- 宮沢俊義:「ポツダム宣言に基づく憲法改正要点」(1945年9月28日)
- 矢部貞治「憲法改正法案(中間報告)」 (1945年10月3日)
- 外務省:自主的即決的施策の緊急樹立に関する件(試案)(1945年10月9日)
この記事は、前回の【近現代史-05】戦争放棄の安全保障論ー幣原喜重郎の『新憲法に関する演説草稿』の続きになります。

但し、記事の内容では、時間を若干逆戻りします。前回の主題である幣原喜重郎の『新憲法に関する演説』は1946年3月8日に行われたものですが、今回の記事では、ポツダム宣言受諾後から幣原の演説に至るまでの7ヶ月間に日本でどのような議論が行われていたかを辿ることが主題です。長くなりそうなので、上と下の二つに分ける予定です。
この記事は、我々日本国民の憲法の源流を辿っていくものなので、二次資料、三次資料に依存せずに、一次資料として残されているものを参照しました。この執筆作業を行うに当たって、既存の出版物には当時のオリジナルの文献が収められていることがほとんどないので、国立国会図書館の特設サイト『日本国憲法の誕生』に多数保存されている貴重な一次資料を利用しました。
本稿『日本国憲法誕生の前夜(上)』では以下の太字にした部分の四つの文献を取り上げます。
1945年(昭和20年)
7月26日:米国・英国・中華民国、ポツダム宣言
8月6日:アメリカ、広島へ原爆投下
8月9日:アメリカ、長崎へ原爆投下
8月14日:日本、ポツダム宣言受諾
9月2日:日本、降伏文書に調印
9月18日:入江俊郎「終戦ト憲法」
9月28日:宮沢俊義「ポツダム宣言に基づく憲法改正要点」
10月3日:矢部貞治「憲法改正法案(中間報告)」
10月9日:外務省「自主的即決的施策の緊急樹立に関する件(試案)」
入江俊郎:「終戦ト憲法」(1945年9月18日)
ポツダム宣言には、憲法という言葉は一度も出てこない。しかし、この内容を受け入れた以上、憲法改正は不可避であることは、日本側も理解していた。しかし、どう変えるかという点で、政府からも学者からも民間からも様々な意見が出ていた。
敗戦直後の1945(昭和20)年8月17日、皇族かつ陸軍大将である東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)が第43代内閣総理大臣に任命された。東久邇宮内閣は、ポツダム宣言が「國體護持(こくたいごじ)」、つまり天皇制の保持を許容したと信じ込んでいた。
同時に、就任後記者会見で、「全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる」と述べ、「一億総懺悔」という言葉が一人歩きすることになった。東久邇宮内閣は、GHQからつぎつぎに発せられる指令への対応に追われ、憲法問題に手をつける前に、在任期間54日間という最短記録を作って総辞職した。
その一方で、法制局第一部長の入江俊郎(いりえとしお)は、憲法改正問題の重要性を認識し、自主的に「終戦ト憲法」という文書を書き、少数の参事官に配布して憲法改正について研究を始めていた。「終戦ト憲法」には昭和20年9月18日という日付がついている。降伏文書調印からわずかに16日後だ。記録が残っている限りでは、これが憲法改正を日本政府が検討した最初期の文書と言えるだろう。
「終戦ト憲法」の内容は、以下のような非常に興味深い二つのセクションからなっている。
⑴ 軍の制度の廃止に伴い、改正を要するのではないかと認められるもの
⑵ ポツダム宣言受諾に伴い、考慮を要すべきもの
当時の日本政府は、ポツダム宣言の内容は、軍の存続を認めないものであると理解していた。これは入江の文書だけでなく、後続する様々な文書でも同様であった。むしろ彼らは奇妙なくらいあっさりと軍を諦めている。
それと鮮明な対称を示すのが、「國體護持」、つまり天皇制の保持だった。この一線はどうしても譲れないという点では、政府関係者のどの改正案を見ても一貫していた。そもそも、これこそがポツダム宣言の受諾を遅らせた最大の要因だったが、受諾後も、日本政府は、國體は護持されたと考えていたのだ。
その一方で、入江は「終戦ト憲法」の中で、軍が廃止なのだから、大日本帝国憲法の中の軍関係の条文はもう要らない、削除するべきだと考え、明治憲法の「統帥大権(第11条)」を削除、「編制大権(第12条)」を削除、「宣戦布告及び講和の外交大権(第13条)」を削除、「戒厳大権(第14条)」を削除、「兵役の義務(第20条)」を削除、「戦時非常大権(第31条)」を削除等々と淡々と進めていく。
もう一つの節「ポツダム宣言受諾に伴い、考慮を要すべきもの」は、検討事項の列挙のような形を取っている。「天皇大権を縮小した方がいいのではないか、帝国議会の権限は拡張しようか、貴族院は改革するべきではないか、枢密院は廃止した方が良さそうだ、解散権も制限しようか」など、入江が、ポツダム宣言が規定する「民主化」の方向へどう寄り添うかを考えている様子が分かる。
「終戦ト憲法」を読むと、入江が國體護持は揺るぎないものと信じ込んでいる一方で、憲法改正の検討を淡々と作業化している様子が、実に興味深い。
話は逸れるが、ルース・ベネディクトの『菊と刀』を思い出した。ベネディクトは、捕虜になった日本兵がなんのケレン味もなく、自分から進んで米軍の役に立とうとすることに驚いているのだが、何かそれに似たような、卑屈と紙一重であるような従順さを入江だけでなく、この時期の日本の敗戦後の処理に関わった日本人に見ることができるように思う。これがベネディクトが感じた日本人性というものなのかもしれない。
さて、入江は「終戦ト憲法」に続いて、様々な憲法改正の検討結果を文書に残しているが、それは別稿に譲ってここでは次の文書に移ろう。
宮沢俊義:「ポツダム宣言に基づく憲法改正要点」(1945年9月28日)
1945(昭和20)年9月28日、外務省は憲法改正問題を検討するため、宮沢俊義東大教授を招聘して意見を聴取した。宮沢俊義と言えば、当時の(戦後も)憲法学の押しも押されもしない大家である。美濃部達吉の愛弟子であったので、当時の通説であった天皇機関説を理由に美濃部が激しく糾弾された時に、宮沢も激しく批判されたが、宮沢は沈黙していたと言われる。
戦前、大日本帝国憲法の講義の際、宮沢は「憲法第一条から第三条まで、これは神話です。法学の対象になりません。省きます」と言ったという逸話が残っている一方で、この宮沢が外務省で行った講義に現れる見解は、非常に保守的であった。
ここでは、宮沢俊義という個人の思想の変遷を評価することが主題ではないので深掘りしないが、彼が“進歩的“という一面性だけでは評価できないことは、宮沢が講義のために準備した「ポツダム宣言に基づく憲法改正要点」が示している。この文書は、正式には、宮沢俊義「ポツダム宣言ニ基ク憲法、同付属法令改正要点」(外務省における講演) 1945年9月28日として記録が残っている。
宮沢のこの講義の大きな特徴は、「明治憲法のもとでも、十分、民主主義的傾向を助成しうる、故に明治憲法の手直しで、ポツダム宣言の精神を実現して行くことが可能だ」という立場だろう。
彼の戦後の進歩的イメージとはかなり遠く感じるだろうが、現在の地点に立って彼個人を批判するよりも、この日本の憲法学の主流の大家でさえ、この時点で、まだポツダム宣言の衝撃が本当には理解されていなかったということこそ、現代人としては衝撃を持って確認するべきだろう。
この宮沢の見解が、やがて自分自身が主要メンバーとなる憲法問題調査委員会、俗にいう松本委員会の方向性に影響を与え、GHQに完全否定される「憲法改正案」(乙案)に反映されていた。
さて、この宮沢俊義の「改正要点」文書は、「ポツダム」宣言の内容に従い、広範囲の論点を列挙して検討している。全体は、以下のような3部に分けられている。
(イ)領土の変更に伴い改正を要する事項
(ロ)軍隊の解消に伴い改正を要する事項
(ハ)民主的傾向の助成に伴い改正を要する事項
ここでは、それぞれの詳細には入らないが、宮沢が何を検討していたかを知るだけでも興味深いので、下位区分を列挙しておく。宮沢もまた、天皇が主権者である明治憲法のこのような手直しだけで、ポツダム宣言の条件を満たすことが可能だと考えていたのだ。
(イ)領土の変更に伴い改正を要する事項
(1)外地法:外地法は全面的に廃止する必要がある。
(2)外地人に関する法:外地人の消滅により、全面的に存在理由を失う。
(A)朝鮮貴族に関する法令:消滅。
(B)外地人と内地人の主たる相違である兵役義務:消滅。
疑問として残る点:
(A)王公族:現状に引き続き、皇族および臣民以外の特権的身分。
(B)外地人であって内地に在り、引き続き内地に留まって内地人たろうとする者の身分。
(ロ)軍隊の解消に伴い改正を要する事項
(1)兵役の義務(憲法第二十条)
(2)軍事大権(憲法第十一条統帥大権および第十二条軍政大権)
(3)戒厳(憲法第十四条)
(4)非常大権(憲法第三十一条)
(5)軍人の身分
(ハ)民主的傾向の助成に関連する改正を要する事項
(1)天皇の大権事項
(a)議会の召集大権(憲法第七条)
(b)緊急勅令(憲法第八条および第七十条)
(c)憲法第九条の命令
(d)外交大権(憲法第十三条)
(e)非常大権
(2)議院制度
(a)議院の組織
(b)議会の活動
(c)議会の権能
(3)裁判制度
(a)陪審法の復活
(b)行政裁判所の権限の強化
(c)請願制度の強化
矢部貞治「憲法改正法案(中間報告)」 (1945年10月3日)
太平洋戦争の戦局が悪化の一途を辿っていた頃、東條英機の暗殺計画を立てていた高木惣吉(たかぎそうきち)という男がいた。高木はその頃、海軍大佐だったが、終戦時には海軍少将になっている。
1944年(昭和19年)7月にサイパンが陥落し、天皇は東條に戦局打開策の提示を求めるが、東條に明確な打開策はなかった。7月18日、東條内閣は総辞職し、もはや暗殺する必要もなくなり、高木惣吉の東條暗殺計画は中止された。
その後、陸軍大将の小磯国昭内閣が7月22日に成立する。高木惣吉は、小磯内閣の海軍大臣に就任した米内光政と、海軍次官に転任した井上成美から終戦工作の密命を受け、本土決戦に固執する帝国陸軍中堅将校クラスの妨害を受けながらも、戦争終結に向け奔走した。
話はちょっと逸れるが、1921年(大正10年)に芥川龍之介を中国に派遣した大阪朝日新聞・論説委員の緒方竹虎(1991年1月1日から2000年12月31日まで国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子の叔父)が、終戦直後、8月17日に成立した東久邇宮内閣の内閣書記官長に就任した。緒方は、高木惣吉に各省の次官たちを統率する初代の内閣副書記官長(現在の「内閣官房副長官」)に就任することを請うた。

そして、高木惣吉は、矢部貞治(やべていじ)東大教授に憲法改正案の作成を依頼した。矢部が作成した1945(昭和20)年10月3日付けの「憲法改正法案(中間報告)」という文書が残っている。矢部は、憲法学者の宮沢俊義と違って、政治学者であった。戦前は近衛文麿のブレーンであった政策研究集団「昭和研究会」のメンバーでもあった。戦後は、長い間、中曽根康弘の相談役であった。
矢部の「憲法改正法案(中間報告)」は、最初に方針を説明し、その後で、明治憲法の各条文について提案を列挙するという形を取っている。その方針が当時の状況を表して非常に興味深いので、最初の二段落を下に引用する。
一、憲法改正については、連合国に強いられてやむを得ずその指令による改正を行うか、この機会に自主的に憲法を改正し、天皇統治の大本を維持しつつ進んで議院内閣制の精神を実現するかの、二様の態度が考えられる。もし前者に就くとすれば、連合国の指令を待って初めて改正を考えるべきである。以下に述べるのは、むしろ後者の態度に立脚しての試案である。
二、本案については、「ポツダム」宣言の趣旨を考慮し、天皇統治の下にできるだけ民意を基本とする政治体制を実現することを期し、議院内閣制の定型に近づけようとすることを意図する。すなわち左の諸趣旨に立脚する。
既に見たように、ポツダム宣言には、憲法という言葉は一度も出てこないが、ポツダム宣言の条件と明治憲法が両立しないことは、当時の日本では共通の了解事項であった。連合国の占領が始まって以来、次々と指令を受け取っていた時期に、これは書かれている。当然、いずれ連合国は憲法改正の指令を出してくるだろうと日本政府は予測していた。それが「連合国に強いられてやむを得ずその指令による改正を行う」という表現で語られている。
矢部はもう一つの方向として「この機会に自主的に憲法を改正し、天皇統治の大本を維持しつつ進んで議院内閣制の精神を実現する」ということを考えている。そして、その立場に立って、この『憲法改正案(中間報告)』を書いたのだということだ。
つまり、9月18日の入江俊郎の文書、9月28日の宮澤俊義の講義、そして10月3日の矢部貞治の改正案の全てが、ポツダム宣言を受諾したにもかかわらず、国体護持、つまり天皇制が保持できるものと考えていた。
しかし、同時に三者とも、それ以外の点については、彼らの考えられる限り、ポツダム宣言の趣旨を明治憲法の改正で実現しようとしている。3人のそれぞれ個人の思想の微妙な差異を読み解くことも可能であろうが、それ以上に敗戦時の日本の思考空間が結局「國體護持」という枠組みの中から一歩も出ることが出来なかったという事実を現代人は認識しておくべきだろう。
外務省:自主的即決的施策の緊急樹立に関する件(試案)(1945年10月9日)
同時期の外務省内においても、興味深い動きがあった。外務省政務局第一課では、ポツダム宣言や連合国の初期対日方針における日本の統治制度の改革の要求は、天皇制の改革も含むと彼らは理解していた。それを阻止するためには、連合国側の改革要求を先取りすべく「自主的即決的」に統治制度の改革に着手しようとしていた。その中には、当然、憲法改正が含まれている。外務省のこの文書「自主的即決的施作の緊急樹立に関する件(試案)」の前文には以下のように書かれている。
現在の国際情勢は、日本を国際的管理のもとに置く方向へと進みつつあり、我が国の前途はますます困難になっている。したがって、対米関係における相互信頼を強化しつつ、我が国自身の自主的な発意によって日本の変革と再生を具体的に実現することが、差し迫った急務である。
しかし、降伏後の事態の進展を見ると、実際にはこの切迫した要請からは大きく離れている。進駐軍は、「ポツダム宣言」および「降伏後における米国の初期の対日方針」などに示された日本統治の基本方針を綱領とする、いわば革命的勢力であるかのように見える。
このような状況において、日本が速やかに、連合国側の対日統治方針の意図するところが、平和主義と合理主義を基調とする民主主義国家の建設にあることを明確かつ徹底的に把握し、日本の変革と再生における主体性を回復し、自発的に統治制度をはじめ、政治・経済・文化などあらゆる分野にわたって迅速に施策の基本方針を確立し、それを強力に実行しなければ、あらゆる事項について進駐軍から命令を受け、その実施を受動的に強いられることになる。
その結果、政治・経済の改革案は極端な方向に走るおそれがあり、このような事態になれば、単に施策の公正さや均衡を失うだけでなく、国家としての自主権の全面的喪失を招き、事態の推移いかんによっては、終戦決定時にポツダム宣言の降伏条項を受諾した際に日本が意図したものが完全に失われ、降伏後のドイツと変わらない状態に陥る危険が極めて大きい。
したがって、別紙要綱に基づき、緊急を要する施策を即断的に確立し、これを連合国側に連絡してその協力を求め、全力を尽くしてその実施に邁進するものとする。
この文章から分かるのは、逆説的なことに、彼らはポツダム宣言および初期対日方針の延長線上に何が来るかを正確に理解していたと言うことだ。興味深いのは、その上で、ポツダム宣言に反対を表明するのではなく(そもそも受諾後のこの期に及んで反対も何もないのだが)、「ポツダム宣言の降伏条項を受諾した際に日本が意図したものが完全に失われ」ることを危惧していることだ。
彼らにとって「日本が意図したもの」とはなんだったのか?それは、この文章に続く「自主的即決的施策確立要綱」において、以下の文章に明確に現れている。
(2)統治制度・統治組織の改革
・皇室制度を合理化するとともに、大赦や皇室財産の下付などにより国民の皇室への信頼を新たにし、国体の維持を確実にすること
・憲法を改正し、その運用において民主主義精神に基づく輔弼制度を確立するとともに、時勢に応じて積極的に機能させること
・内大臣府・枢密院などを民主化し、高度政治の公開を図ること
・選挙法および貴族院制度を民主的・進歩的に改正し、速やかに総選挙を実施すること
・行政機構を統合・簡素化し、官僚制度および任用制度を抜本的に改革すること
・検察制度に残る封建的要素を一掃すること
・地方行政区画を見直し、地方自治を強化すること
彼らは、ポツダム宣言の受諾が国体護持を放棄するものではないと固く信じていたのだ。それが彼らの「意図したもの」だった。
この1945(昭和20)年10月上旬という時期に、外務省は憲法改正問題に関して検討した文書類を多く残し、外務省の田付景一条約局第二課長兼第一課長は、「帝国憲法改正問題試案」を作成、「自主的に改正すべき点」を論じた。また、条約局は「憲法改正大綱案」を作成した。これらから読み取れるのは、ポツダム宣言の趣旨を忠実に生かした憲法を自分たちの手で作ろうとする意気込みだ。但し、天皇制を堅持するという一点で、彼らは譲れなかった。
ここまで見てきた四つの文書に共通するものは明らかだ。ポツダム宣言の趣旨に非常に忠実に真面目に従おうとしていた。但し、ただ一点において、彼らは完全な誤解をしていた。國體は護持されたと彼らは信じていたのだ。これが後に大きな問題となる。
(続く)
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