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『伊丹万作「戦争と政治」選集』は3月下旬にKindle版、4月下旬に紙版を発売開始の予定です。関心のある方は、このフォームにご記入ください。アップデートをメールで送ります。
目次
- まえがき
- 1941年(昭和16年)
- 1. 思い――情報局の映画新体制案について――
- 1944年(昭和19年)
- 2. 映画と民族性
- 3. 戦争中止を望む
- 1945年(昭和20年)
- 4. 一つの世界――私信――
- 1946年(昭和21年)
- 5. 政治に関する随想
- 6. 戦争責任者の問題
まえがき
伊丹万作は、19世紀最後の年、1900年(明治33年)に生まれた映画監督、脚本家、俳優、エッセイスト、挿絵画家。本名は、池内 義豊(いけうち よしとよ)。知性派の監督と言われ、「日本のルネ・クレール」と呼ぶ人もいたらしい。
長男は映画監督・俳優の伊丹十三、長女はノーベル文学賞受賞作家の大江健三郎の夫人・大江ゆかり。孫は作曲家の大江光、俳優の池内万作、池内万平。
伊丹万作は、1946年(昭和21年)9月21日に亡くなり、彼の著作権は既に切れているので、今では、無料あるいは廉価で単独の作品や、様々なタイプの作品を集めた選集の書籍を読むことが出来る。
伊丹万作は、映画論や芸術論について多くの随筆の書いたが、本選集では、彼が戦争と政治に触れている作品だけを集めた。
ここに収めた6つの作品は時代背景の流れを見事に映し出している。以下には、年表形式でこれらの作品を時代の中に位置づける。
1941年(昭和16年)
1. 思い――情報局の映画新体制案について――
1941年(昭和16年)9月5日:
『思い――情報局の映画新体制案について――』を執筆。『映画評論』1941年10月号に発表。
同年7月に情報局が設置され、映画・演劇・出版を含む文化統制が本格化。映画界では「映画新体制」による製作・配給・上映の一元管理が検討されていた。
この作品には、戦時中の日本における「言論統制」や「思想や芸術の弾圧」という定型句からはみだす当時の日本社会の現実が読み取れる。伊丹は、「事変以来、官庁側の民間に対する指導方式の中には、「禁止しないが、自発的に取りやめろ」とか、「方法はそちらで考えろ」とかいう持つて廻つた表現がとみに多くなつた」と書いている。直接的な命令ではなく、国が言いたいことを国民の方がくみ取れという形の“指導“によって、国民の側が政府の意図を内面化していく過程を伊丹は嗅ぎ取ったのだろうと思う。
しかし、この作品の批判の焦点は情報局ではない。伊丹がある日、政府の意図を聞き、「厳粛かつ沈痛なる思い」に沈んでいたら、ラジオの歌曲が耳に入った。そのあいも変らぬ低劣浮薄な享楽調に、伊丹は思わず耳をおおいたくなる。
政府は、「貴重なる弾丸の効果に匹敵するだけの、有用にして秀抜なる映画でなければ作らせない」というが、この一般文化の質の低さをこのままにしておいて、映画だけを特別に引き上げるというのは無理な話だと伊丹は嘆く。
そもそも制作する映画の本数に制限をつけて質を上げろという政府の要請の本質が、「映画の質に発したのではなく、フィルムの量から出ている」ということを伊丹は見抜いていた。国民が低劣浮薄な享楽に浮かれている間に、物資が何もかも不足する時代に突入していたのだ。
1941年(昭和16年)12月8日:
真珠湾攻撃。太平洋戦争開戦。情報局主導による戦時宣伝体制、つまり伊丹の言う情報局の「映画新体制」が全面化し、映画は「国策映画」として動員される。
1944年(昭和19年)
2. 映画と民族性
1944年(昭和19年):
『映画と民族性』を『映画評論』1944年3月号に発表。
戦局は、1942年6月ミッドウェー海戦での敗北以降、急激に悪化していた。国内では「精神力」「民族性」を強調する言説が強まり、文化論も戦意高揚と結びつけられていた時期に、この随筆は書かれた。
その当時、日本政府は「日本映画の進出に関する方策」を映画界に通達し、外地向け国際的映画を作ることを奨励していた。そこで、「畳の上に坐臥する日本の風習は彼らのわらいを買うからおもしろくない。百姓の生活は見せないほうがよい。貧しい階級の生活は見せないほうがよい」という風潮が出てくることを伊丹は批判する。彼は言う。
「かくのごとき重要なる国家の構成分子の生活を除外してどこに芸術があろう。日本には百姓もいない。貧者もいない。いるのは軍人と金持だけであり、それが立派な洋館に住み、洋服を着て椅子に腰掛け、動けば雄大なる構想をもつて大活躍を演ずるというのが彼らのいう外地向きの映画なのだ。このような映画の作れる人は作るがよい。私には不可能である。」
国粋主義の絶頂期であった時代に、「国際的」であることを奨励すると言うところに日本人の西洋劣等感が漏れ出てしまう。それに対して、伊丹は敢然と異を唱える。
「我々の感じる美、我々を刺戟する芸術的感興は、常にあるがままなる民族の生活、その風俗習慣の中にこそあるのである」
と言い「民族性を離れていかに映画を論じたところで、決して解答は出てこない」と警告する。
3. 戦争中止を望む
1944年(昭和19年)半ば:
『戦争中止を望む』1944年(昭和19年)半ばに執筆と推定。
この作品によって、伊丹が当時の戦況をどう見ていたかがよく分かる。彼はこの作品の中で次のように書いている。実際の敗戦の約一年前に、伊丹は日本の完全な敗北を痛烈な言葉で記していた。
「政府は二言目には国民の戦意をうんぬんするが、いままでのごとく敗けつづけ、しかもさらに将来に何の希望をも繋ぎ得ない戦局を見せつけられ、加うるに低劣無慙なる茶番政治を見せつけられ、なおそのうえに腐敗の極ほとんど崩壊の前夜ともいうべき官庁行政を見せつけられ、なおかつ戦意を失わないものがあればそれは馬鹿か気違いである」。
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