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日本国憲法の成立史は、論争の多いトピックの一つです。いずれこのシリーズでもいったい何が争点になっているのかをカバーする予定です。ただ、いきなり詳細な、時には些細な議論は読むのはしんどいと思うので、これまでに書いた簡略な概説を最初に掲載することにしました。
ここの前半に載せたのは、元々ニュースレター用に書いて、後にブログの載せた文章の一部です。後半部分は『新しい憲法のはなし』という本を再販した時に書いた「まえがき」の一部です。まず、ここから入りましょう。
目次
- 日本の再出発
- 逆コース
- アメリカは罠にはまった。
- 異変が始まった。
- 『あたらしい憲法のはなし』
- 大人のためのまえがき
- なぜ、新しい憲法が必要になったのでしょうか?
- 日本国憲法の公布
- 日本国憲法普及の努力
日本の再出発
『あたらしい憲法のはなし』が出版されたのは、今から79年前の1947年(昭和22年)の夏だった。その年、日本の義務教育は6年から9年に延長された。尋常小学校の6年に新制中学校の3年が付け加えられたのだ(実は戦時中に既に義務教育の延長は議論されていたが、もちろん実行できるはずもなかった)。
僕が子どもの頃、親たちの会話にはまだ”新制中学校”という言葉が時々出て来たのを覚えている。彼らにとって、僕が行く中学校こそが、新制中学校だったとはその時は知らなかった。
その年、1947年(昭和22年)4月から新制中学校は始まったが、新たに登場した「社会科」の科目は、教材の準備や教員の講習等に時間がかかり、実際には9月からのスタートになった。そこで教科書として文部省が作ったのが『あたらしい憲法のはなし』だった(後に副教材となる)。
逆コース
1949年10月1日、中華人民共和国が成立し、1950年6月25日、北朝鮮は、38度線を越えて韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発した。これ以後、アジアの共産化を恐れたアメリカの対日占領政策は、「民主化と非武装化」から、事実上の「再武装化」へ急展開する。そして、現在の自衛隊へと発展する警察予備隊が創設された。ここに逆コースが始まった。
その後、逆コースが日本社会のあらゆる側面で始まる中、1951年、『あたらしい憲法のはなし』は静かに使われなくなった。
逆コースという現象は、日本がアメリカの世界戦略のツールの一つとして使われ始めたということを鮮やかに表している。その後の日本は、日本という国の国家主権が虫食いだらけになっていく過程としてみることが出来るだろう。
1951年9月8日、日本の占領状態を終了し、日本の独立を回復するサンフランシスコ講和条約が49ヵ国との間で結ばれたが、皮肉なことに同時に署名された旧日米安保条約と日米行政協定(その後、新日米安保条約と日米地位協定に引き継がれる)により、日本の対米従属は固定されてしまった。対戦国との講和=占領の終了=主権の回復=独立であるはずのことが、他国の属国化になるという前代未聞のねじれを生じ、それが現在にまで持ち越されている。
しかし、変わらなかったものが一つだけある。それが日本国憲法だ。
1947年(昭和22年)にその施行は既に始まっていた。アメリカが何を言っても、憲法を逆コースに戻すにはもう遅かった。日本国憲法には、日本の「民主化と非武装化」というポツダム宣言の方針と、それを実現しようとするアメリカの初期対日占領政策の方針が色濃く反映されている。その事実をもって日本国憲法を「押し付け憲法」だと言ってる人がいる。
意見の相違を暴力で決着をつけようとするのが戦争だ。最後には勝者が敗者に条件を押し付けて許してやるというのが戦争だ。日本は戦争に負け、許してもらう条件をのんだ。スポーツの試合が終了した後で、ルールに文句をつけても誰も相手にしてくれない。「押し付け」というセンチメントは、日本が国際法上の約束を律儀に守ろうとしたという側面を見ていない。
日本国憲法の実際の制定過程を見ると、単純に「押し付け」と呼べるようなものではないことは明らかだ。ポツダム宣言の受諾は、苦渋の決断であったであろうことは想像に難くない。しかし、その同じ日本人の中に、この戦争の決着に日本の未来に”勝機”を見た人たちがいたのだ。彼らは「民主化と非武装化」という”押し付けられた”条件をしっかりとつかみ、日本国憲法の制定をやり遂げた。
アメリカは罠にはまった。
アメリカは自分の作った罠にはまった。
連合国の初期占領方針を見事に具現化した憲法を日本は制定した。その後、アメリカが日本をアメリカの世界戦略に自由に使える駒として使おうとした時、日本は既に憲法で守られていた。アメリカはそれでも諦めない。それが、新・旧安保条約であり行政協定/地位協定だ。それでも、日本はしぶとく、のらりくらりと抵抗を続けていた。ほんの最近まで。
自主憲法の制定は、1955年(昭和30年)に結党した自民党の党是であったが、それから約半世紀、自民党はそれについては実質的には沈黙しているも同然であった。アメリカとの軍事同盟(新・旧安保条約+行政/地位協定)に依存することによって、経済発展に専念することが出来たという評価の一方で、その軍事同盟依存こそが、日本の独立主権国家としての地位を蝕んでいたという評価もある。
実際は、そのどちらでもあり、どちらでもない、軍事同盟と日本国憲法の間で辛うじて綱渡りをしていたというのが実態だろう。日本にとってアメリカによる保護は利用価値が高く、かといって完全な属国になることも避けようとしていた。前者に傾き過ぎた政治家は罵倒され、後者に傾き過ぎた政治家は排除されてきた。
ここに、既に日本国憲法の価値のねじれが生じていた。アメリカに”押し付けられた”憲法は唾棄すべきものであると息巻いていた人たちのセンチメントは、そんな日本国憲法は日本の独立主権国家としての地位に対する侮蔑であると感じていたことは理解できる。そのセンチメントは自民党の結党時に党是として回収される。
ところが、その後、国内的には逆コース、世界的には冷戦下のアメリカの世界戦略による日本に対する圧力は、「従属か独立か」の力学を完全に逆転させた。現行の日本国憲法を死守することによってのみ、独立は維持されるようになった。それが、自民党の半世紀の沈黙を説明する。日本の主権国家としての独立を渇望する人たちにとって、かつて対米従属のシンボルであった日本国憲法の維持が必要になってしまったのだ。
異変が始まった。
憲法の施行から60年後、異変が始まった。
日本国憲法を巡る力学が再度、転倒し始めた。第一次安倍内閣は、2007年(平成19年)国民投票法を成立させ、第二次安倍内閣は、2012年(平成24年)自民党憲法改正草案を発表し、第三次安倍内閣は、閣議決定による解釈改憲に基づいて、2015年(平成27年)平和安全法制を成立させた。
自民党は、それまで首の皮一枚でつながっていた独立の維持という願望をあっさり棒に振る方向に走り始めた。現在の憲法改正推進の議論は、本人たちが意図していようがいまいが、日本がアメリカの道具と化すこと、対米従属を固定することに恐ろしく無頓着であるように見える。
『あたらしい憲法のはなし』
79年前の日本の大人たちが、日本の政府が、子どもたちになんとか伝えようとした日本国憲法の理念は何も変わっていない。将来、日本が独立した主権国家として生き直そうとした時に、思い出すべきものとして、今の子どもたちにも知っておいて欲しいことが、すべて『あたらしい憲法のはなし』には書いてある。
『あたらしい憲法のはなし』は今までなんどもいろんな出版社に出版されて来たし、今も手に入るものもある。ただ手に入りにくかったり、高価だったりする。表記法が古いままなら、青空文庫に無料のKindle版もある。
出来るだけたくさんの人(子どもも大人も)に読んでほしいので、原文の古い表記を現代かなづかいに変えて、難しい漢字にはふりがなを付けて、子どもに大人がこの本が出版された背景を説明できるように「大人のためのまえがき」を書き加えて、ウェブにアップした。これは直ぐに無料で読むことができる。同時に、有料になるが、Kindle版と紙版も作った。
『新しい憲法のはなし』は中学生用に書かれたものだが、以下の文章は、親・保護者が子と会話出来るように付け加えた「大人のためのまえがき」です。
大人のためのまえがき
これは、昭和22年(1947年)8月2日に日本政府が発行した『あたらしい憲
法のはなし』の複製です。
その2年前、日本は戦争に負け、昭和20年(1945年)の9月2日に降伏文書に署名し、ポツダム宣言を公式に受諾しました。
その直後の9月11日、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)内閣総理大臣は、次のように発言しました。
「我々の前途はますますいばらの道を分けて進まねばならないと思う、これと共に一方将来の建設の踏み切りをも準備しなければならないと思う」。
そして、東久酒宮内閣総理大臣は、日本の再建に向けた施策の実行計画を各省が作成し、9月末までに報告するように通達しました。日本再建の開始です。
同年10月25日、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣総理大臣は、新しい憲法を作るために、国務大臣松本烝治(まつもとじょうじ)を主任とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を設置しました。これが日本が新しい憲法を作るための正式な出発です。
なぜ、新しい憲法が必要になったのでしょうか?
ポツダム宣言は、
「日本国政府は、日本国国民の間における民主主義傾向の再生及び強化に対する一切の障害を除去しなければならない。言論、宗教及び思想の自由、並びに基本的人権の尊重は確立されなければならない。」
と言っています。民主主義と基本的人権の尊重を日本政府が確立しなければいけないということです。
ところが、その時の日本の憲法である大日本帝国憲法ではポツダム宣言の趣旨を満たすことはできませんでした。そこで、新しい憲法の内容について話し合いが繰り返され、1年後の昭和21年(1946年)11月3日に、ようやく新しい憲法、日本国憲法が公布されました。
公布というのは、一般国民みんなが知ることが出来るようにひろく告げ知らせるという意味です。
日本国憲法の公布
昭和21年 (1946年)11月3日の日本国憲法公布の当日、貴族院本会議場で式典が催され、天皇陛下の勅語が下されました。勅語というのは、天皇が国民に対して発する意思表示のことです。今では、勅語のかわりに”おことば”という言葉が使われます。
その日の勅語で天皇陛下は次のようなことを伝えました。
①日本国民が自ら進んで戦争を放棄し、世界に永遠の平和が実現することを念願する。
②日本国民は常に基本的人権を尊重すること。
③国政は民主主義に基づいて運営しなければいけないこと。
④新らしい憲法のもとで、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する
「文化国家」を建設することを目指すこと。
そして、その翌日、日本政府は次のような内容の声明を発しました。
新憲法の公布を機とし、その精神の普及徹底を期するとともに、教育、文化、経済等に関し政府の抱する当面の施策の基本を宣明し、これが実現に付国民諸君の協力を要請する。
その施策として、次の6つの項目を挙げました。
①新しい憲法を徹底的に広めること、
②教育制度を改善すること、
③行政や公務員の制度を良くすること、
④地方自治を確立すること、
⑤産業や経済を再建すること、
⑥労働問題を解決すること、そして国民の暮らしを安定させることです。
難しい言葉が並んでいますが、易しい言葉に言い換えると、政府は、新しい憲法の考え方を徹底的に広めたく、教育や文化、経済についての具体的な施策を説明し、国民の協力をお願いしたのです。
日本国憲法普及の努力
新しい憲法を国民みんなに知ってもらうために、貴族院と衆議院の両院と政府は、日本国憲法公布の約1ヶ月後、12月1日、帝国議会内に憲法普及会というものを設けました。
翌年の昭和22年(1947年)2月15日から5日間、憲法普及会は、中央官庁
の職員に対して、憲法普及特別講習会を開き、連日受講者が千人を超える盛況でした。
日本国憲法公布から半年後の昭和22年(1947年)5月3日、日本国憲法はい
よいよ施行されることになりました。施行というのは、効力を現実に発生させることです。日本国憲法が日本の憲法として生き始めたのです。
憲法普及会はこの新しい憲法を出来るだけ多くの国民に知ってもらうために「小学校卒業程度の学力をもつ国民」を対象として『新しい憲法 明るい生活』と題する小冊子を約二千万部、日本国憲法施行日の昭和22年(1947年)5月3日に発行しました。当時の人口は7,800万人くらいでしたから、平均して一家族四人でも各家庭に行き渡るくらいの数です。
この年、昭和22年(1947年)から、新しい学制が始まりました。それまで日本の義務教育は尋常小学校の6年だけでしたが、この年から3年間延長されて中学校も義務教育になりました。新しく追加されたので、新制中学校と呼ばれました。
新制中学校では、新たに「社会科」の科目がこの年の9月から登場しました。そこで副教材として文部省(現在の文科省に相当する)が発行したのが、この『あたらしい憲法のはなし』だったのです。当時の政府が新しい憲法を国民みんなに知ってもらうために大変な努力をしていたことが分かります。
『あたらしい憲法のはなし』を書いた人は、浅井清という学者さんで、彼は後にこのように記しています。
嬉々として学校へ通う子供達の姿を見るにつけて、彼等の将来の幸福のために、正しい憲法の知識を持たせる唯一の機会が与えられたことに感を覚えた。
END
もし憲法にご関心があれば、憲法リテラシー SEASON 5 のご案内もご覧ください。

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