【Caitlin’s】ガザのホロコーストに反対することは、人として最低限の基準を満たすための基本的な要件です。

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数週間前、下のような投稿をXにした時、思いのほか反響があって驚いたのだけど、その中のかなり多くの人が、まったくとんちんかんな袋小路に迷いこんでいたことにもっと驚いた。

彼らは、この事故の責任は誰にあるかをひたすら追求していた。この投稿はそこにはまったく触れていない。原因がなんであれ、責任が誰にあれ、一人の人間が道路の真ん中でこけて負傷しているかもしれない状況が目の前にあって(しかも少なからず自分にもその原因の一端があるかもしれない)、まったく無関心で通り過ぎる、その態度について書いている投稿だ。

それが読み取れず、糾弾するべき相手を見つけるために躍起になっている集団が現れた。そして、得意気に、あれが悪い、これが悪い、あいつが悪い、こいつが悪いと盛り上がっている。それで結論が出たとして、どうなんだろう?目の前の困った人を無視して通り過ぎる態度の異様さは一切変わらない。

今回のケイトリンさんの記事を読んで思い出したのは、上の投稿のことだった。すべての小賢しい議論や、生半可な知識は、子供たちの残虐な殺戮の前では、まったく意味がない。どのような深く、崇高な議論がそのような残酷な行為を正当化できるというのだろうか。膨大な数の子殺しを非難したら、自国政府に目をつけられる?出世に響く?冷笑される?世間に変な目で見られる?そういうことなら、自分に生きている価値があるかどうか考え直した方がいい。

[原文情報]
タイトル:Opposing The Gaza Holocaust Is Just The Basic, Bare Minimum Requirement To Not Suck As A Person
著者:Caitlin Johnstone
配信日:APR 04, 2025
著作権:こちらをご覧ください。
原文の朗読:こちらで 聴けます。

ガザでのホロコーストに反対することは、あなたを「善い人間」にするわけではない。だが、それに反対しないことは、あなたを「悪い人間」にする。

それは、自分を気持ちよくさせるためにすることではない。自分自身と向き合って生きていくために必要なことなのだ。なぜなら、それ以外の選択肢は、最低限の良心すら持ち合わせた人間にとっては、到底受け入れがたいことだからである。

ときどき、「イスラエルのガザでの行動に反対するのは、美徳の誇示(virtue signaling)だ」と言う人がいる。しかし、ガザでのイスラエルの行動に反対することには、何ひとつ「美徳的」な要素などない。「美徳」とは「高い道徳的規範を示す行動」と定義されている。

だが、これはそういう類のことではない。進行中のジェノサイドに反対するというのは、人間として最低限の条件にすぎない。それは、プールで溺れている幼児を助けることと同じで、「美徳」でもなんでもない。ただ、まともな人間なら当然取るべき行動というだけのことだ。

それを「美徳の誇示」と言い、ジェノサイドに反対するデモ参加者を、流行に乗っているだけだと揶揄する者たちは、自分自身について非常に示唆的な事実を白状している。つまり、彼らは、自分にとっては「社会的な称賛が得られる」こと以外に、ジェノサイドに強く反対する理由など思いつかないということを認めているのだ。彼らは、自分たちが「悪い人間」であることを告白しているのである。

私たちの中で、ガザでのジェノサイドに反対することに自らの時間を費やしている者は、自分たちが特別なことをしているとは思っていない。高尚なことをしているとも、模範的なことをしているとも思っていない。後になって、自分たちの行動を誇らしく振り返ることさえないだろう。

ただ、歴史のこの時点において、自分の人生を恥じることなく振り返ることができる——その程度のことだ。将来、孫たちに「ガザのホロコーストのとき、あなたは何をしていたの?」と聞かれても、嘘をつく必要も、うつむく必要もない。それだけのことだ。

私たちのように、声を上げてこのジェノサイドに強く反対している人間が、社会全体の中でごくわずかしか存在しないという事実は、私たちの「崇高さ」を示しているのではない。

それは、この社会の「堕落」を物語っている。どれほど私たちの心と思考が、プロパガンダと利己主義に毒されてきたかを。どれほど私たちの良心が、歪められ、ねじ曲げられてしまったかを。私たちの多くが、この地球上で生きてきた年月の中で、人間として成熟することに失敗してきたかを。

この悪夢がなおも続いているという事実は、私たちの文明そのものの暗い本質を暴き出している。この果てしない大量虐殺を、支配者たちが何ヶ月にもわたり続けながら、なおも権力の座に留まり続けていること。

今日もまた、想像を絶する残虐な手段によって子どもたちが殺される。そしてそれは、私たちが生きる西洋の権力構造によって支えられている。にもかかわらず、それに反対する者はあまりにも少ない。

なぜなら、考えるだけでも不快だから。テレビを見ていた方が楽だから。あるいは、西側諸国の政治政党のいずれかを支持しているから。その政党こそ、この殺戮を可能にしてきた当事者であるにもかかわらず。

そしてまた、人によっては「イスラエルに公然と反対することが、自分のキャリアにどんな影響を及ぼすか」「社会的な地位を失うのではないか」と心配している。

あるいは、「この現実を直視したとき、自分の中に生じる認知的不協和が、あまりに大きくて、自分を押し潰してしまうかもしれない」という恐れを抱いている。

私たちにできることは、せめてこの狂気に加担しないことだ。それは、私たちが「正義の人」だからではない。夜、安らかに眠るためだ。自分が「ライブ配信されている人類初のジェノサイド」を目撃しながら、何の行動も起こさないような人間になりたくないからだ。歴史を振り返って、「自分にできる限りのことはすべてやった」と思えるようになりたいからだ。

昨年、ガザでのホロコーストに抗議してイスラエル大使館前で焼身自殺を遂げた米空軍現役兵士アーロン・ブシュネルは、自身のフェイスブックにこう記していた。

「私たちの多くは、こんなふうに自問するのが好きだ。『もし自分が奴隷制度の時代に生きていたら、どうしていただろう? ジム・クロウ法の南部にいたら? アパルトヘイトの時代にいたら? 自分の国がジェノサイドを犯していたら?』——答えはこうだ。君は、今まさに、その中で生きている。今この瞬間に。」

ブシュネルは、誰か特定の人を非難しようとしていたわけではない。ただ、私たちに鏡を差し出していたのだ。その鏡に映るものを、どう見るか——それは、誰の責任でもなく、私たち自身の責任である。

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