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これは、【本の旅】高群逸枝『女性の歴史』①の続編です。まず、それを最初に読んでもらわないと意味が分からないかもしれません。

女性を閉じ込めるナラティブ
高群逸枝の叙述スタイル
高群逸枝の生涯をかけた女性史研究の全体の構成については、①の方を見てほしいのだけど、僕がそもそも高群逸枝に関心をもったきっかけは、女性差別という人類に普遍的に広がった現象の謎だったので、それを解明してくれる場所を求めて読んでいた。
高群逸枝の著作は構成がよく練られているのだが、横道にそれてそれをどんどん深掘りすることもとても多い。ぼんやり読んでいると直ぐに迷子になってしまう。現代の効率至上主義的な論文の書き方から見れば、これはよくないことなのだろうが、いわゆる古典的名著として残ってる作品には寄り道派が多い。そこに作者の味が出ていて魅力にもなる。マルクスだって、サミュエルソンだって、我妻栄だって、ややこしい話の中に彼らの人間性が浮き出てくる小咄をふんだんに詰め込む。そういうのは、その書物の本筋である学問的主張とは、独立した魅力として存在する。
古典の意義
今は古典を読むなんて効率の悪いことはしないということなんだろうけど、それは人類の叡智の蓄積という共同作業の放棄のように思える。数年前そんなことをツイッターで呟いたら、古文や漢文なんて読んで、なんの役に立つ?という正確に的を外したリプを頂いた。いや、それは日本の教育課程における古典という言葉の使い方に過ぎなくて、古典というのはもっと広い意味を持つもので、数学も物理学も天文学も文学も社会哲学も政治経済学もなにもかも含めて、人類の歩みの指標のように残っているもののことで・・・なんて返答はしなかった。こういうリプに応えてもまともな返答が返ってきたことは一度もないから。
教養の有無は、人類の蓄積の上に今を生きているかどうかということだと思う。全ての動物の中で人間だけがそのようなつかみようのない「知」というものを一つの世代から次の世代へ受け継いでいく。生物的な遺伝的継承とは異なる概念の継承を人間だけが行えるというのはとても興味深い。
それなら、それを止めることと、人間を止めるということとは同義なのではないかとも思う。人間と人間以外の動物を対照させて、人間の方が優れているという立場にはどうしてもなれないのだが、少なくとも一部の人間の間では、人間を止める、つまり他の動物に戻る過程が始まっているのかもしれない。
こんなんじゃなかった頃
話がだいぶ逸れてしまった。高群逸枝さんの著述を読みながら、彼女の壮大な思考の旅についていったのだが、明確に把握するのがとても難しいと感じた部分がある。
それは、社会がこんなんじゃなかった頃の姿だ。女性差別が生まれる前の社会はどんな社会だったのか。今、地上で息をしている人間は、誰一人それを経験したことがない。いや、女性差別が比較的少ない環境や、全くない環境は存在すると主張する人もいるのは分かる。しかし、それは実験室のように閉じられた環境だと思う。
例えば、国際機関の中では、男性も女性もその他の性もまったく同じ扱いを受けていた。性に基づく差別という概念そのものが死んでいたと思う。しかし、そのような環境から一歩外に出て見てみると、それがいかに特殊だったかということを思い知るだけだった。
性的伝説や物語と「つくられた女」
高群逸枝によると、今の女性の社会における位置付けは、数千年に渡って続いている。現代女性が置かれた立場は、おおかた次のような言葉で表されている。
女性の性器が用具化され、性交の方式が歪曲されて以来、人類は、とくに男たちは、このような幾百幾千の病理学的な性的伝説や物語の類型をつくり、また現実の女性にたいしても、同じことをあくことなく要求してきた。
ここに書かれている「性的伝説や物語」の例を高群逸枝はいくつも出してくるので、それぞれが興味深い。どんどん話が横道に広がっていくというのはそういうことだ。
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