きっかけ
最近イスラエル・パレスチナ問題に関するあまりにお粗末な政治家の発言がメディアを賑わしていましたが、そのタイミングで、かつてテルアビブのロッド空港で日本人が銃を無差別に乱射して26人を殺し、73人に重軽傷を負わせた事件を知らない人の話をツイッターで見ました。
その時にしたツイートがこれ。
あーそうかぁ、これを知らない世代が今の社会の中心なんだな。強烈な印象が残ってます。しかし、日本人が起したこんな世界史的大事件が日本人に伝え続けられてないというのもおかしな話だ。だから、セルフイメージが歪んでいるのか。
— よしログ (@yoshilog) June 1, 2021
それで、ふと思いついて、その週末に突発的に始めたライブが「日本の近現代史」シリーズでした。時系列にそって事件史を辿るというやり方では、重箱の隅しか見えず人類の歩みが俯瞰できないという欠点があるし、そもそも「事実の羅列」対「主観的創作」という二項対立の罠からも逃れられない。
だから、無数にからまる伏線と視点を移動させつつ語るというかなりアクロバティックなやり方で「歴史をしてみよう」と思いました。そういうやり方をすると頭がこんがらがることが期待でき、その結果、自分の頭で考えざるを得ないのではないかと考えたのが、これを始めようと思ったきっかけです。
「日本の近現代史」シリーズの能書き
その時、大急ぎで書いた「日本の近現代史」シリーズ全体の能書きはこれです。
Yoshilog Live で「日本の近現代史」シリーズを始めます。
『歴史とはなにか』で、E.H. カーが言うように、完璧に客観的な歴史も、完全に主観的な歴史もないという意味での近現代史です。
歴史に地理的制限をつけるのはそれだけで一つの歴史観を前提します。ここでわざわざ「日本の」という制限句を付けているのは、逃れられない主観の居場所を隠蔽しないためです。
人類史における Modernization (近代化)が日本にあったかどうかは大きな疑問の一つですが、その謎を含めるために「近現代史」としました。
ここで「現代」というのは正確には、Contemporary (同時代)と言うべきものです。同時代というのは今行きている人間がそこに属しているということを意味しています。それなら、現在地球上に住んでいる人間全てが属す同時代が存在するはずです。しかし、日本に限ってみれば、それが極めて疑わしい。日本が「世界とsync (同期)していない」という問題があるからです。その結果、まるで進化の系統樹から日本が枝分かれしていくように見えます。
”客観的事実”は妄想の産物ではないが、無限の”客観的事実”から”歴史的事実”が形成されるという過程は主観の産物であるということ、
主観は人間の頭の中から発生したとしても、その人間は逃れられない”客観的事実”の中にしか存在できないということ、
結局、歴史とは固定したものではなく、止まることのない人間の行為なのだということが『歴史とはなにか』から得られる収穫です。
その思考の枠組みが分かったとして、それを実践するのはまた別の問題です。新しい動詞を作って「歴史をする」というようなことをする。それが、この「日本の近現代史」シリーズの意図です。
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