日本が世界と同期した最後の瞬間

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日本は先進国というウワサ

前世紀末以降に生まれた人にはピンと来ないかもしれないが、「日本は先進国」というウワサを聞いたことがある人は多いと思う。しかし、これはもちろん根も葉もないウワサではなく、むしろ海外の人が驚きと、まさかという疑念を持って語り始めたと言って良いだろうと思う。それは、半世紀以上前の話だ。

1945年

敗戦

1945年(昭和20年)8月15日正午、玉音放送によって昭和天皇の「朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ」(1)を聞き、大日本帝国臣民は自国の敗戦を知らされた。

(1)現代語訳:「私は帝国政府を通じて、アメリカ、イギリス、中国、ソ連の四カ国に対し、その共同宣言(ポスダム宣言)を受諾する旨を通告しました。」

貧困

爆弾の嵐は止まったが、敗戦後の連合国占領下の日本は食料不足にあえいでいた。1946年の日本人の一日のカロリー摂取は1530キロカロリーにすぎず、戦時中の1950キロカロリーさえ下回った。GHQの報告では、戦後直後の民間人の死亡者数は人口あたり2.1% にも及び、戦前の1.6%を上回った。つまり、日本は著しく貧乏だった。

1952年

日本の独立 ー 主権の回復と米軍駐留

敗戦以来、連合国に占領されていた日本は、1952年(昭和27年)4月28日に公布されたサンフランシスコ講和条約によって、ようやく主権を回復した。


Treaty Of Peace With Japan
 Chapter I Peace
 Article 1
  (b) The Allied Powers recognize the full sovereignty of the Japanese people over Japan and its territorial waters.


日本国との平和条約
 第一章 平和
 第一条
 (b) 連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。

同時に締約された条約が日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安全保障条約)であり、この条約に基づき、アメリカ軍部隊は在日米軍となり、駐留を続けることになった。戦後占領期の日本の軍事的な真空化を前提に、日本政府が米軍の駐留を希望するという形式をとるものであった。

これはやがて1960年(昭和35年)に渡米した岸信介首相率いる全権委任団が調印した新安保条約に引き継がれる。

主権の回復と外国軍の駐留がセットになった国家の独立とは何なのかを巡って議論は沸騰し、日本は大きな火種を抱えて戦後の再出発をすることになった。日本はその後、安保闘争に揺れ動くことになる。

1960年

所得倍増計画

独立国家としての再出発8年後の1960年(昭和35年)12月27日、池田勇人を首相とする内閣は、国民総生産(GNP)を10年以内に26兆円(1958年度価格)に倍増するという「国民所得倍増計画」をぶち上げた。焼け野原の貧困から抜け出すというのが日本にとって最大の緊急課題であった。

高度経済成長

そして、日本の実質国民総生産は約6年、国民一人当り実質国民所得は約7年で倍増した。日本はその後「高度経済成長期」(1955年ー1970年)と呼ばれることになる急速な経済成長の真っ只中にあった。80年代(昭和55年から)「日本の奇跡」と世界で呼ばれた日本の急激な経済大国化はここに始まっている

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1964年

先進国クラブ

1964年(昭和39年)4月28日、日本は長年の悲願だった経済協力開発機構(OECD)の21番目の加盟国となった。「先進国クラブ」とも呼ばれるOECDに仲間入りしたことによって、この後「日本は先進国」意識が日本に定着していく。

東京オリンピック

同年の10月10日から10月24日までの15日間、第18回オリンピック大会が東京都で開かれた。参加国の国力の競争、あるいは冷戦下の東西ブロックのメダル争い以上に、東京オリンピックは特別な意義を持つオリンピックであった。それは、世界が西洋・白人・欧米の支配から脱却への道に踏み出したことを象徴するものであった。

  ■「有色人種」国家における史上初のオリンピックであった。

  ■アジア、アフリカの旧植民地が次々に独立し、参加国数はオリンピック史上最大になった。

  ■アパルトヘイト政策を行っていた南アフリカの参加を、国際オリンピック委員会は拒否した。

日本の戦績

日本は、東京モノレール、東海道新幹線、武道館、セイコーの電子計時などで世界に経済復興と日本の技術を見せつけ、その後、開会式の10月10日を、「体育の日」としたが、この祝日の本来の意義は「日本の復興」であると言った方が良いだろう。

日本選手の活躍もあり得ないレベルに達した。冷戦真っ只中の当時、両陣営のリーダーである米ソはあらゆる分野で競っていたが、オリンピックも例外ではなかった。金メダル獲得数では、1952年ヘルシンキ五輪から1972年ミュンヘン五輪まで6大会連続で米ソが1位2位を独占していた。そんな状況の中、東京オリンピックで日本は突如第3位に浮上したのだった。

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日本が1964年東京オリンピックで獲得した金メダル数16個という記録は、アテネ五輪での同数があるだけで、いまだに破られていない。

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国家とオリンピック

古代オリンピックを1500年ぶりに復活させた近代オリンピックの第一回大会は、1896年に行われたアテネ・オリンピックだった。当時は参加者は国家単位ではなく個人名義による自由出場だったため、複数国の混合チームさえ出場していた。テニスのダブルスでは、イギリス/ドイツのペアが優勝したため、現在のように国単位でメダル数競争をすると、この優勝でイギリスとドイツは0.5金メダルずつ得たことになる。

2020年に予定されていた東京オリンピックに関連して、NHKが「五輪開催5つのメリット」の一つに「国威発揚」を挙げて話題になったことがあるが、既に今から100年ほど前に、オリンピックは国力を競い合う場になり始めていた。

五輪メリットは「国威発揚」 NHKが憲章と真逆の仰天解説|日刊ゲンダイDIGITAL ビックリ仰天した視聴者も多かっただろう。21日のNHKの番組「おはよう日本」。オリンピックを扱ったコーナーで、「…www.nikkan-gendai.com

1924年のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』には、実在する二人のランナーが、民族と国家、宗教と国家の間で葛藤する姿が描かれている。世に出た瞬間から古典になったと評される、この圧倒的な傑作を、登場人物と同じくらいの年齢だった頃に見て、身震いしながら映画館を出たのを覚えている。

1936年ベルリン・オリンピック

ヒトラーのオリンピック

国威発揚の場としてしばしば取り上げられる例は、ヒトラーのオリンピックと呼ばれる1936年のベルリン大会だろう。当初ヒトラーは、オリンピックを「ユダヤ人の祭典」であるとして、ベルリン開催に乗り気ではなかったのだが、「大きなプロパガンダ効果が期待できる」と説得されて、オリンピックを「アーリア民族の優秀性と自分自身の権力を世界中に見せつける絶好の機会」と位置づけ、ベルリン市だけでなく、国の総力を挙げて開催準備を進めることになった。

オリンピックの国威発揚モデルとはどんなものであったのか?

聖火リレー

国民啓蒙・宣伝大臣のゲッベルスは、ベルリン・オリンピックを一大宣伝ショーとして演出の総指揮を取った。ギリシアからバルカン諸国、オーストリアを経てドイツに聖火を運ぶ走者リレーを演出し、世界から注目を集めた。これが、聖火リレーの始まりとなり、今に至る。

インフラ

短期間でオリンピア・シュタディオン(オリンピック・スタジアム)や選手村、空港や道路、鉄道やホテル、さらに当時まだ実験段階であったテレビ中継などの受け入れ態勢の整備が進められた。

人種差別政策の一次停止

ナチス政権のユダヤ人迫害政策や反政府活動家に対する人権抑圧は、既に国外に知られており、イギリスやアメリカ、開催地の地位を争ったスペインなどが、ベルリン・オリンピックの開催権を返上させようとしたり、ボイコットを行う動きを見せていた。しかし、ゲッペルスは、ベルリン・オリンピックのボイコットを阻止するため徹底的な隠蔽を行った。

  ■このオリンピック期間中、多くの観光客が国外からやってくることが想定されるので、ホテルやカフェ、海水浴場など観光客が立ち寄りそうな場所から「ユダヤ人立ち入り禁止」の掲示を取り払うことを徹底した。
  ■反ユダヤ主義新聞『デア・シュテュルマー』の売店での販売を禁止した。
  ■大会期間の前後に限りユダヤ人に対する迫害政策を緩めることを約束した。
  ■ヒトラー自身も、有色人種差別発言、特に黒人に対する差別発言を抑えた。
  ■ユダヤ系の選手の参加も容認された。
  ■反政府活動家が収監されていた収容所の規則は一時的に緩められた。
  ■一部の反政府活動家の出国を許可した(事実上の亡命の容認)。

このような「対策」のおかげで、この時期にドイツを訪問した観光客の多くはドイツに好印象を持ったという。また、ドイツ政府のこのような「変節」を受けて、開催権の返上案は撤回され、イギリスやアメリカも参加することを決意した。但し、スペインはベルリンオリンピックへの参加をボイコットし、同時期に五輪候補地だったバルセロナで「人民オリンピック」を開催することを計画した。

ドイツの戦績

前回大会の1932年ロサンゼルス・オリンピクではドイツの金メダル数はわずかに3個であったが、今回は、ドイツ選手は圧倒的な強さを見せ、金メダル、総メダル数ともトップであった。

1932年ロサンゼルス・オリンピックのメダル数

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1936年のベルリン・オリンピックのメダル数

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ジェシー・オーエンス

アメリカの黒人選手であるジェシー・オーエンスが、ヒトラーの人種差別主義の下でのオリンピックに参加することに議論が起きたが、結局、彼はベルリンで陸上4種目で優勝し史上初の4冠を達成した。この陸上4冠記録はカール・ルイスが1984年のロサンゼルス・オリンピックで4種目で金メダルを獲得するまで並ぶ者がいなかった。

ジェシー・オーエンスの半生については『栄光のランナー/1936ベルリン』という映画になっている。

日本統治下の選手

日本は合計18個のメダルを獲得したが、この数には、日本統治時代の朝鮮の選手のメダルも含まれている。新義州出身の孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン)は、アジア地域出身で初めてマラソンで金メダルを獲得した。全羅南道の順天出身の南 昇竜(ナム・スンニョン、なん しょうりゅう)は、マラソンで銅メダルを獲得した。

日本の敗戦後、二人とも韓国に戻り、コーチとして活動し、1950年のボストンマラソンでは韓国選手が上位3着を独占した。

前畑頑張れ

ベルリン大会は、女子200メートル平泳ぎで日本の前畑秀子選手とドイツのゲネンゲル選手との激戦を、ラジオ放送で河西三省アナウンサーが「前畑頑張れ」という絶叫に近い連呼で実況し、日本中に熱狂的な興奮を巻き起こした大会でもあった。

『オリンピア』

女流映画監督のレニ・リーフェンシュタールは、ナチスの全面支援を受けて、ベルリン・オリンピックの記録映画を撮り、『オリンピア』として公開された。この作品は1938年のヴェネツィア国際映画祭で金賞を獲得する。映像技術や、移動カメラを初めて本格的に使用した表現力とセンス等、各方面で絶賛されて、不朽の名作とされている。

『オリンピア』の成功により、IOCは以後のオリンピック大会において、それぞれの組織委員会が記録映画を制作することを義務とした。

リーフェンシュタールは、戦後アメリカ軍により逮捕されたが釈放。フランス軍にも逮捕され、証拠として私物の接収されたが釈放。その後も、逮捕・釈放、精神病院収容・退院を繰り返したが、1948年、ナチス構成員ではなかったとの判決を受けた。

2003年、リーフェンシュタールが100歳の時、長年助手を務めたホルスト・ケトナーと結婚し、最期は彼に看取られて101歳で死去した。

1964年東京オリンピック

東京オリンピックは、戦後の焼け野原からの復興とめざましい経済成長を世界に見せつける絶好の機会を日本に与えた。日本は、このチャンスを活用することにほぼ完璧に成功したと言えるだろう。

1936年のベルリン・オリンピックが基礎を作った国威発揚モデルは、その後の各オリンピックによって継承されていくが、1964年の東京オリンピックもまたその忠実な、そして有能な後継者であった。

しかし、世界の破壊に向かう国のオリンピックと、破壊された国のオリンピックには大きな違いがあった。ヒトラーは最初から世界を騙すことをベルリン・オリンピックの目的としていたが、東京オリンピックは破壊から立ち上がったことを世界に示すのが精一杯であった。円谷幸吉の悲劇の遠因はそこにあるだろう。身の丈を超えた「頑張り」をしなければいけない圧力を感じる日本国民がいたとしてもおかしくないない。

『一人の道』

ピンク・ピクルスが1972年に発表した『一人の道』は、1964年東京オリンピックのマラソンで銅メダルを獲得したが、1968年メキシコ・オリンピックの年に自殺した円谷幸吉をモデルにして、個人よりも国家の戦いになったオリンピックの中での選手の気持ちを歌おうとしていた。

円谷幸吉が亡くなった1968年から、その死を歌ったピンク・ピクルスの『一人の道』が発表された1972年の間は、世界中で同時革命が起きるのかと思わせるような若者の叛乱が起きた時代であった。日本もその一つであった。

1968年のフランスの「五月革命」、カリフォルニア大学バークレー校の反乱、『いちご白書』で描かれたコロンビア大学紛争、東大安田講堂事件に繋がる東大紛争などは、互いに連携していたわけでも国際的に組織化されたものでもなく、自然発生的にほぼ同時に起こったものだった。

にもかかわらず、大衆の異議申し立てであり、カウンターカルチャーであり、反体制文化であるという点で、共時性が存在した歴史の一瞬であった。

『いちご白書』

世界の若者が問題にした個別のイシューは、公民権であったり、ベトナム反戦であったり、安保であったり、異なるものであったが、国家という体制に対する若者の疑問が根底にあったという点で彼らの運動は同期していた。

国威発揚型オリンピックは、その反対の極に位置するものだったが、当時の日本は焼け跡から立ち上がって国家の体を作りなおすことだけで精一杯だったというのが現実なのだろう。

上記のように、東京オリンピックが史上初めての「有色人種」国で開催されたオリンピックであり、アジア・アフリカの旧植民地が大量に独立し、史上最大の参加国数になったオリンピックであり、南アフリカの参加をIOCが拒絶したオリンピックである、というのは、国家間のことだが、そこには先進国内での若者の叛乱と相似形の思想が反映されている。

西洋・欧米・白人諸国が支配する世界体制に対する異議申し立てが現実の形として現れてきたのだった。しかし、東京オリンピックを完璧に実施した日本は、国内的にも国際的にも、この新しい波に乗る余裕はなかった。

むしろ日本は1961年以降、南アフリカの「名誉白人」という扱いを甘受するポジションをとっていた。東京オリンピックから30年後、1994年のマンデラ大統領就任により、アパルトヘイト政策が完全に消滅した現在でも、日本の「名誉白人」的メンタリティが消滅した気配はない。

東京オリンピックをやり遂げ、高度成長を経て、奇跡と言われる経済成長をする過程で、欧米白人国家でしか出来ないと思われていたことを極東の小さな国が次々と達成する姿を見て、日本を畏敬し始めるアジア・アフリカの有色人種国は少なくなかった。

それは、1904〜1905年の日露戦争で日本がロシアを破ったというニュースが世界中の非白人国家を奮い立たせたのと同様の衝撃であっただろう。かつては、戦争によって、今回は経済成長によって、日本に対する大きな期待が生まれた。

しかし、日本はその期待を二回裏切ることになる。

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