目次
- クソリプに学ぶ
- 制度はどこから来るのか?
- 工学と理学、実定法学と法理学、臨床医学と病理学
- Equality と Equity
- 公正(fairness)と「ずるい」
- 差別と区別
- 出口は?
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レビュー
公平という幅が広くつかみにくいことが今日の説明で良く納得できました。
「哲学は哲学書でなく音楽で広まる」が印象的でした。
今日も色々考えさせられました。ありがとうございます。 社会や国家の理念や目的が議論されず、ソリューションの横並びが目的化している日本の姿が明確に見えてきました。悲しい。
「私だって日常生活を満足に過ごせるような状態でなく、また政府の支援や社会制度は十全に機能しておらず、歯を食い縛って生きています」まではいいのに、「だからあなたも我慢しなさい。そうするしかないのです」と言ってしまう、その原因についてみんなと共有できて良かったです。
公共性にたどり着く前に 己の心の狭き門をくぐれなかった💦 妹が体が弱いので(子供二人産んで育ててますけど)「今までいろいろな労力を提供してきたけれど 歳をとってきたから これからはお金が期待されているんだよね」と言ったら「うんうん」と肯かれたので 恐ろしくなって遠ざかっています。体力は寝れば回復するけど 私よりいい遺族年金貰っている人にあてにされなくてもいいんじゃないかと…。でもやっぱり 弱い人は助けなくちゃあ平等になれないのかしら…。 いつもズルい…と思ってきた 心の狭い私を再確認しました^^;
クソリプ、それが実は日本の善良な一般市民の意見であるという部分の闇の深さ、何が公正なのかの定義の部分の根本的なボタンの掛け違いみたいな気がしました。最近アメリカのLinkedInで流れてくる仕事、Diversity, Equity, and Inclusion関連のものがものすごく増えていて、今回みたいな内容の研修のニーズがアメリカの職場でも増えていることの表れだと感じます。日本でも同じような動きを自分が死ぬまでに見られるだろうか?
車椅子での公共交通機関の利用に関する色んな意見を目にして頭にハテナが浮かぶことがありました。真面目に解答してるようだけど言ってることは差別的に感じられる言葉は、日本社会のおかしさそのものだと痛感しました。 改めて解説してもらうと、何故炎上したのか、何故批判されるのか、日本がどういう方向を向いているのか向くべきなのか、日常的に発言して多くの人が話し合えるようにならないと日本は退化していく一方だと思いました。 人権の教育、公共の役目など、そもそもの意味や成り立ちを知って考えて社会に参加することから目を背けないようにしたいです。 ありがとうございました。
日本における平等というものに対する考え方が同調圧力というものを作るもとになっているのではないかとお話を聞いて個人的に思いました。
日本では公平公正が普段見えないというか隠されているとうっすらと感じており、改めて問題点を提起していただきありがとうございました。日本の「普通」を維持させようとする力の強さを改めて認識する契機になりました。コロナ対応がやってるふりだけになるのも、目的がないというか選挙で再選されること以外にないからそうなるということも副産物でわかりました。
個人ではコントロールしようがない理由で個人に係る負担を社会の負担・公共の仕事として引き受けるには、公共部門のリソースを増やす必要がある。そのために雇用の創出が発生するのはいいとしても、財政の発動が必要で、さらに増税も可能性として上がってくる。大きな政府か小さな政府か、という議論にもなってくるわけですが、困ってる人がいたら自分にできる範囲で手を貸す(物理的・経済的・精神的に)ことが当然にできる社会であれば、目的を達成したいというより素朴な理想が、制度や枠組みの重々しく技術的な議論の前に敗れ去る、ということもより少ないと思われます。隣人を愛することで社会は変わっていく。単純な話だけど。
公正や平等ということについて、日ごろ考えていたことと一致する部分もあり、また言語化できずにもやもやしていたものを明らかにしていただいた部分もあり、お話を聞くことができてとても良かったです。日常生活を送る中でこのようなテーマについて他人のお話を聞く機会はあまりないのでありがたかったです。今後自分が社会にどのように、どのような発信をしていくかについて、少し考えがまとまりました。ただし、物の受け止め方は常に柔軟に、考え続けることをやめずにいきたいと思います。ありがとうございました。
おそらく真面目で善良だろうと思われる人たちからのクソリプにモヤモヤしていた理由がはっきりしました。ありがとうございました。身近に長く車椅子生活の人がいます。改造した車を運転してよく外出し、バリバリ仕事をし、スポーツを楽しみ、コロナ前は定期的に海外旅行にも行っていた活動派です。本人も周りも、事前に段取りをすれば車椅子でもこんなにいろいろなことができる、という考え方が強く、時間をかけて段取りをすることが当たり前いなっていて、車椅子だからといって健常者は考えもつかないプロセスが必要なのはおかしくないか?ということにはあまり思い至らなくなっていたように思います。Short term solutionとして色々事前準備をすることと、そんなことが必要のなくなるLong term goalを目指すことは両立するはずですが、Long term goalが共有できないのが今の日本のようです。
yoshiさん、今日もありがとうございました。事象はいろいろ様々でともするとあっちこっちにとんでしまってわからなくなりますが、概念の本質をいつも頭に置いておいて、個々の問題はそこと照らし合わせて考えるということが一番大事だと思いました。 個人の負荷を社会の負荷に変えていくのが公共の目的と皆が認識するようになれば、多くの問題が解決すると思います。また、個人の努力で変えられない事柄を社会が負荷とするのが差別ということも、概念で理解すればとてもはっきりすることを知りました。 世界はこのような方向に進んでいっていることを、日本の人は学ばなくてはならないと思いますが、日本の社会はいまだ個人の負荷の軽減へという意識はなく、上下関係を重視した強いもの中心の前時代的な思考の中にいます。 yoshiさん、お疲れ様でした。浮いている自分を大事にしたいと思います。いつもありがとうございます。
初めて参加させていただきました。伊是名さんのことは東京新聞のコラムをいつも楽しみに読んでいました。問題になった行動に対していろんな意見を読んで、すぐに設備を整えられない以上ある程度の配慮が当事者にも必要かなと思いながらも、もやもやしていました。日本の制度は誰かが死なない限り変わらないように見えるし、ずっと我慢を押付けるのは不公平だから。 ある方のツイートを見て、そうだこの通りと思ったことを、今回、明確に公共の概念として提示していただきました。日本には独自の「世間」があり、世間の外の「社会」はまったく無関係・無関心の方が多く、何ももたないからこそより弱い者を叩いて鬱憤晴らすという地獄のような国で、意味を正しく知ることは大事ですね。誰かが明らかに困っている場面でないと声をかけることも躊躇してしまう自分ですが、「大丈夫です」と言われても、もっとわがままに近寄ってもいいなと思いました。 考える機会を与えてくださって、ありがとうございます。
初めて拝見しましたが、とても興味深く聞かせていただきました。また開催された時があれば、ぜひ参加したいです。
近代化以降150年、ヨーロッパの思想を取り入れて来たはずの本邦で公正さを担保しないと公平は成立しないことが浸透しない理由を知りたくて参加しましたが日本人男性健常者が標準のヒトというこれを譲らないからだと理解しました。強者が譲らないと何も変わらない、困りごとを抱えている人たちはみな声を上げているので言わないからわからないとかそんなことは言わせないぞ、と改めて闘志が湧きました。
頭に石が乗ってない人は他人の頭上の石が見えにくいです。他人の頭上の石を可視化するためには車椅子で問題になった人のように大騒ぎをしてここに石があるぞと叫ぶ、自爆的テロ行為以外に何か方法はないのでしょうか。
今日のお話はとても分かりやすく、よく理解できました。今まで言葉にならず抱えていたモヤモヤが言語化され、モヤモヤの正体がよりクリアになりました。「個人の心がけとしては良いが、ある属性の人に重しをのせることを社会や他人が強要してはいけない」という事と、「平等を達成することが目標で、同じものを平等に与えること自体が目標でも平等なことでもない」という事がとても頭に残りました。
非常に難しいテーマでしたが色々と考えされられるイベントでした。一般的に公正で平等な制度の実現の為に機会の平等を与えるべきだと言われることが多く、勿論間違ってはないです。 ただそれだけでは不十分であり政府等がサポートするべきですが、具体的に問題点を抽出し対策を考えること自体とてつもなく困難であるとも思います。
すごくわかりやすかったです。小学生でも理解できる素材で、パッとみて伝わるのがすごいですね。いわゆるクソリプではなくて、その人にとっては大まじめなコメントの方がむしろ怖いといつも思います。共同幻想のレールから外れたことがない人たち、人間関係や行動もその狭い世界の中で完結している人たちを想像します。「できなかった自分」もきっといたはずなのに、見なかったことにしてきた弱さの反動なのか、レールから落ちなかったことのプライドなのか。明日ケガして車いす生活になるかもしれないのに。または家族がそうなるかもしれないのに。当事者意識、マイノリティ感覚、そういうものがないことが不思議です。多様性の話とセットだと思うんですけどね。色々また考えるきっかけになりました。ありがとうございました。
“equity”を概念としては理解しているつもりでしたが、しっくり来ないなと以前から感じていました。今日お話を聞いて、日本では”equity”よりも”equality”が重要視されており、そもそも私の中に”equity”の考えが浸透していないのが原因だなということがよく分かりました。 バリアフリーが中々進まない点についても、必要なことなら設備投資すれば良いことですよね。お金がないと言う理由で納得してた自分が恥ずかしいです。。 本日のお話を聞いて、考え方一つで変えれることが沢山あることを学べて良かったです。また機会があればYoshilog Liveに参加させていただけたらと思います。どうもありがとうございました!
車いすの方の件では、声をあげている方は「これから、未来に向けて」改善して欲しい、という要望と思うのですが、「現状は対応していないのに無理」という意見は「現在」限定の視点で、公正な状況のイメージの共有がされていないと同時に意識が向いている時間軸もずれているように思っていました。 こういう意識のずれは、公正さのイメージの共有が薄いことも発生要因の一つかな、とお話を聞きつつ思いました。あるべき理想、は未来への視線なので。理想が意識の軸として導入されると視線も未来に向くかなぁ、と。
頷く事が多い回でした。確かに、公平とは平等とは何かという議論は今まで数多くして来ました。しかし、どんな社会を作りたいのかと言う目的論を発射台にした記憶は残念ながらありません。 言われてみればその通りです。制度設計も制度運用も目的があって初めて評価が成立します。目的が共有されなければ議論は進むはずがありません。 我々は国民主権と言いつつ、どんな社会を築いて行くのか、行きたいのかと言う根本のところに積極的に参加して来ませんでした。日本の社会問題を語りつつも、そこで意識される望ましい社会とは、どこか虹の彼方であって、「試行錯誤であっても自分たちの手で作って行くのだ」、という意識は希薄でした。 ボランティア活動や社会変革を求める活動も、時期期間を限定した特殊な活動であって、息をするような基本的日常生活ではありませんでした。そうである事に違和感を感じてはいなかった。 そんな事柄が一瞬のうちに頭を駆け巡りました。 これが全ての原点かも知れません。これをこれからの世代とどう語り合って行くか。 これからの大きなテーマになりそうです。
①生存権や人権は個人がどういう信条や考えを持っているかで、守るか守らないかなどはかってはならないから、車椅子で階段が上がれない人には上がれるようにエレベーターを作り、無ければエレベーター替わりに人が運べば良い。生存権や人権を守る前提に感謝が必要であるとか人としてのあり方を問うのはずれていて間違いである。 個人のコントロールを超えたその人に対する負荷は自己責任ではなく、そこから生存権や人権が守らて当たり前なのを踏まえないと、どんなに正論、専門知識を持ってきても、クソリプよりも丁寧な解説くらいにしかなっておらず基本的な態度と論調は同じである。
②小学高学年、中学の時にクラスの中に話すことも出来ない重度の知的障害の男子生徒がいたが、女性教員や女子生徒には抱きつき、お尻や胸を触り続けていたが女生徒が怒り、抵抗のために突き飛ばしたら男子生徒が障害者差別だからやってはいけないと強い口調でホームルームで言っていた。障害者だからなんでも言うこと聞くなんてあり得ず、こちらの生存権や人権が脅かされる場合は誰であろうと抵抗する。
①と②の態度は両立します。 善良すぎるとどちらの意思決定も難しく、自分で判断しようとはしません。
②からですが、障害者や引きこもりの男性にも女性をあてがえという論調もあり、介護や医療の現場、いやどこであってもケア労働や奉仕は女性がして当たり前というのが根強く、搾取される対象となりやすい。①のような場面で女性は②のような経験があったり対象者に違和感を感じるなら一人で対応しない方がよいというのはあります。
転じて、女性の障害者やLGBTの人達は色々な面で理解されないことやしんどいことが相当多いのではないかと思います。
そもそも公正とか平等の理解がない人も時々いますが、今日聴いていてもあったように、悪意なくと云う部分は大きいと感じています。最近、差別とか平等の話をずっとしていて、まさに悪意のない意見に悲しくなる事が多くあります。
「日本の思想」を読んでから、これらの見え方が大きく変わり、どうして難しくなっているのかに関心が向いていて、今日は自分の感じていることを再確認する場となりました。 今日見た画像はいろいろな場面で示された事があるものもあったりしたので、やはりこれらが一番理解しやすいんだなと思いました。
今後も様々な角度から、このようなテーマについて沢山の対話を重ねていきたいと感じました。ありがとうございました。
初めてのよしログさんLive、今日は家族全員で聴いていました。 例の車椅子での乗車に関わる色々な意見は、まさに私も気になっていた話題でした。
「車椅子利用者は駅に行く際は、事前に駅へ連絡すれば良い」など、あの意見の多くは、真面目で正当性があるようなのだけれど、実は個人の基本能力が発揮される環境が平等であることが前提ではなく、その環境が十分に整っておらず、「常に誰かが負担がかかったことが前提にした『真面目な意見』」であるのだと整理することができました。
車椅子で生活している方は、駅から電車に乗り目的地に移動する以外でも、様々な日常生活の中でひと手間ふた手間を課せられている現状があり、電車乗車のところだけを切り取れば、たった一つの連絡かもしれませんが、数えきれない手間の中の一つに過ぎない、という理解と視点が、周りにいる立場として非常に大切なのだと思います。
お話途中に出てきた「負担がかかった状態での平等」を表したイラストはとてもわかりやすくかったです。 とくに色々な種類の動物たちが「テストをするので木に登りなさい」と言われている図を見たわが家の小学生のこどもたちは一斉に、 「こんなのだめじゃん、猿が有利に決まってる。それぞれがテストしやすいようにしないと。アザラシは泳ぎながら、象は踏みつぶしながら…」 と提案し始めました。
個人の力ではどうにもならないことを手助けする。これが公共の視点であり、政治の役割だということも伝わったのだと思います。
ちなみに、もし私が困っている車椅子の方をお見かけしたら…、 駅員さんがダメなら近所のお店のおじちゃん、おばちゃん、通りがかりのタクシーの運転手さんでなどもつかまえたりして、人と車椅子を別々に持って、みんなで担いでなんとかワッショイワッショイと運べないかな…と思い巡らしていました。
Liveの開催時間帯もちょうど利用しやすかったです。次回もまた楽しみにしています。
公正や平等の問題を語ろうとすると、クソリプへの怒りが先立ってしまい、自分の考えがまとまりませんでした。しかし、本日のお話を聴いて、思考の枠ができ、どう語るか・考えるかという切り口を少し得られた気がします。
ふと思ったのですが。個人の負担って何なんでしょうか。背負い込んだものとは。障害は背負い込んだものではなく生態学的には異なっている事でそれを負担に変える必要はないし。負担に思うのなら解きほぐす事が必要なんじゃないかな。個人で話し掛ける話し合うその事から始めないといけないのかなと。すみません断片的で纏まらない…
今回も答えのない問題を問う機会をありがとうございました。
識者風のもっともらしい正論が飛び交う社会ですが、現実を見るとそれらの正論で苦しむ人たちがたくさんい流ことに気づきます。
社会をより良くしたいと言う認識が希薄なのか、公という概念を理解していないのか、、。税金の問題にしても、政治家や官僚の汚職や常識はずれの言動にしても、とにかくどこから手をつけて良いのか分からないほど狂っているように思います。
私は学生時代から20年以上、周囲の人たちへこういった話を事あるごとにしてきましたが、うざがられ、嫌われ、親に至っては「何を偉そうに!じゃあ、あなたが政治家になって変えなさいよ!そんなこと個人で話して解決する事じゃないのよ!」と怒鳴られ、大変孤独になりました。
最近は少々話せる仲間ができましたが、社会への期待は無くなってしまい、少々諦めの境地です。 これからもこつこつと自分でできることをしてゆくだけですが、Yoshiさんのような方がいらっしゃると救いになります。また、そこへ集う方々がいるということが少しの可能性を感じさせてくれます。
以前、日本を窒息させる言葉、というまとめをしてくださったかと思います。もう何十年もこういった言葉で差別などに関しても対話の機会すら奪われてきたのだなぁと改めて感じました。
とりとめもなく、すみません。。
今日ご教示いただいたこと、ゆっくり深めてゆきたいです。 ほんとうにありがとうございました。
Equality 平等と Equity 公正の違い、日本での問題点を、障がい者への配慮を例にいろいろ考えることができてよかったです。公正な社会づくりは政治の仕事という点にも、とても共感を持ちました。日本の教育でも、大人(特に教育関係者)や子どもがこのような内容をもっと教わる機会があればよいのにと思いました!今日も、ありがとうございました。
本日も、有意義な時間をありがとうございました。
公正と平等について、幼稚園児や小学生も問題意識を持って考えられるような図を使っての説明だったので、とてもわかりやすかったです。ありがとうございます。
木をのぼる課題に色々な動物が参加する図からは、小さい時に見た、イソップ物語の狐とつるがスープを飲むはなしを思い出しました。
幼稚園に行くか行かないかの時でしたが、このはなしの絵本をみて、狐とつるのスープの飲み方に差があることに気づいたことをなんとなく覚えています。
今思い返してみると、多様性について、初めて気づいた時かもしれません(笑)
「お互い、もう少し優しさを持っていれば、仲良く出来たのに、意地悪の仕合っこをしたらあかんな。」 と、思ったのを覚えています(笑)
会社の昇格制度や女性の昇格を考えたとき、公正や平等について色々と考えたのですが、それが狐とつるのはなしとが繋がっているとは考えもつかなかったです。 とても単純で、そして、とても複雑な問題ですね。
クソリプとマジリプの境界線がなくなってきている。
マジリプはまともなことを言っているので、反論出来ないと思っていたので、なんとも言えない違和感がありました。
今日のYoshiさんの説明を聞いて、それがなぜなのか、納得出来ました。
今の日本は、最終目的が不明確なために、混乱しているように思えます。
会社で言うと、トップが悪い=日本のトップ(政府)が悪い ですね。
日本には資材がない、資金がない。
言うだけなら誰でも言えますし、その中でどうにかするのも大切ですが、そこから脱却するにはどうするかを考え、なんとかしようとするのが政府だろうと、前々から考えていましたが、なぜか世の中の大半の人は、今の政府を擁護する人が多く、考えが違ったりしています。
今の状態から良くなろうとするのではなく、悪くならないでおこうとする。 どなたかのコメントにもありましたが、前身・発展ではなく「現状維持」をしようとする。
それでは、世界の変動についていけるわけがないですよね。技術も、思考も。
英語圏では、公正と平等について、家庭や身近なところで話す機会があるとのことでしたが、日本の家庭では、避けているのではないかと思われる気配があります。
家長制度が根強い田舎は特にかもしれません。
「女は男を立てるものだ」「女性と話しても、まともな話は出来ない」
その様な考えを持っている人が、公正や平等を冷静に話せるとは思えません。
日本を変えたい、けど、どうすれば良いのかよくわからない。
ダイナミックなことはできないですが、小さなこと、選挙に行くことがまず第1歩だと考えていますが、それだけではダメなような気がしています。
Yoshiさんの最後の一言「哲学は哲学書ではなくポップソングで広がる」が、社会に問題提起ができる唯一の手段ではないかと、本当に思えてきます。
次の選挙では、日本が良い方向に向かうよう、選挙に行って、清き一票を投じてきます。
(言語化、難しいです💦)
ありがとうございました。
これからも、よろしくお願いいたします。
このたびは貴重なお話をありがとうございました。私は現在、カリフォルニア州で大学生をしています。Twitterでのご発言には常々共感しおりましたが、今回のZoomでも心から大切と思う事柄に丁寧に、でも難しくはせずに講演されておられ感服いたしました。
とりわけ、私にとりましては、現在の社会の状況が(国民も権力も)現状を肯定するのに全力を尽くし、「日本すごい」の結果、あらゆる場面で世界に遅れをとっているのにもかかわらず、それに気づかずに呑気に暮らしている怖さを改めて感じました。 公共に対する認識もその一つです。
言葉の定義も含め、私たち市民がある程度はまともに認識する力がないと、この国はもう本当にダメになってしまうのではと、日々失望します。こちらの大学で日々、差別や社会の構造を学びながら日本の異常さがわかり戸惑うこともたくさんあります。しかし、よしログさんのような方が日本でなくとも地球に存在する限り、私も諦めずに頑張ろうと思います。私に何ができるかを毎日模索しながら、勉強中。楽しい人生です。
よしログさま感謝しております、ありがとうございました。
Tips
チップしてもらえたら、嬉しいです
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