LESSON 4 個人の消滅と家族の導入
このビデオでは、「個人の消滅」と「家族の導入」という二つのトピックに焦点を置いて話します。「集団的自衛権の行使」を合法化した平和安全法制を基礎にした「国防軍の創設」や「緊急事態条項」ほど目立ったトピックではありませんが、この二つに現在の自民党の思想がよく現れています。憲法学者の樋口陽一氏と小林節氏の対談『「憲法改正」の真実』の中で指摘されていた論点ですので、一読されることをお勧めします。
個人の消滅
日本国憲法の三大原理、人権の尊重・国民主権・平和主義は、個人の尊厳を守ることが基礎になっています。人権は個人が生まれながらにして持っているものであり、個人が存在しなければ、民主主義は成立するわけもなく、民主主義のないところに国民主権はあり得ないし、個人が幸福追求するための条件として平和が必要になります。つまり、日本国憲法の三大原理は個人を尊重することと同義であるとも言えます。
自民党改憲草案では、日本国憲法の条文で使われている「個人」という単語から、ことごとく「個」を削除して「人」に変えています。「人」では単なる人間という動物の集合体になってしまいます。英語でPeople と言うのと同じニュアンスのように思えます。英語で言うところのIndividual を徹底的に削除しているのです。
近代になってやっと個人は自由を獲得しました。言い換えれば、近代と個人の成立は同義でもあるのです。自民党改憲草案に表れているのは、近代の否定でもあるのです。それが、自民党憲法改正草案は、大日本帝国憲法を飛び越して、慶安の御触書に戻っていると憲法学者が言われる所以です。
「公共の福祉」から「公益及び公の秩序」へ
自民党憲法草案には、もう一つ日本国憲法から徹底的に変えられた言葉があります。それは「公共の福祉」です。それが「公益及び公の秩序」という言い回しに変えられています。
字面だけを見ると、同じようなものに見えるかもしれません。しかし、大違いなのです。
日本国憲法では、「公共の福祉」というフレーズが4回出てきます。第12条、第13条、第22条、第29条です。そのうち第12条、第13条、第29条の3条で「公共の福祉」が「公益及び公の秩序」に置き換えられています。(第22条では「公共の福祉」が削除され、置き換えもありません。これについては、本編で説明しています。)
一例として、第12条について見てみます。
日本国憲法
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
これが自民党改憲草案では以下のように変わっています。
自民党憲法改正草案
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。
国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
公益というのは、人権とは違うものです。一番分かりやすいのは、国家の利益とか、あるいは戦前使われた國體の護持がそれに相当するでしょう。公の秩序も、人権とは違うものです。社会の秩序ということです。つまり、お国のためなら、人権を制限する、秩序のためには人権を制限するということです。一見正しいように見えますが、これは人権の概念を無効にしています。人権を日本国憲法は次のように定義しています。
日本国憲法
第十一条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
自民党改憲草案でさえ、以下のように言っています。
自民党憲法改正草案
第十一条 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、犯すことのできない永久の権利である。
つまり、自民党憲法改正草案は、「犯すことのできない永久の権利」でも、お国のためなら制限できると言っているのです。人権概念と矛盾しています。人権が、国益や秩序とバーター取引できるものなら、そもそも人権という概念は必要なくなります。君主や宗教権力のそのような圧力を跳ね返すことによって成立したのが人権なのですから。
それでは、人権が現実に制限されることはないのかと言えば、そんなことはありません。制限されることがあります。それは、一人の個人の人権と、別の一人の個人の人権が衝突するような場合です。一人の自由が、他の一人の自由を侵害するような場合を想定すれば分かりやすいかもしれません。そのような衝突を解決するためには、両者が少しずつ自由を制限する他ありません。そういう原理を「公共の福祉」と呼びます。
ここでの「公共の福祉」という言葉遣いがピンと来ないかもしれませんが、ここの二人の登場人物で構成された最小の社会を「公共」と考えてみてください。そして、その最小の社会がより良い状態になることが「福祉」であると考えれば、腑に落ちるのではないでしょうか?衝突して罵り合ったり、あるいは暴力沙汰になるよりも良い社会を維持するということです。
ここで重要なのは、ある個人の人権を制限することが出来るのは、別の一人の個人の人権だけであるということです。言い換えれば、人権の外にある理由を持ってきて、人権を制限することは出来ないということです。
日本人は、他の人と違う服を着ていたらとか、他の人と違うことを言ったら、和を乱すから出来ないというような心理が働きがちですが、それは自分の自由よりも社会の秩序を無意識のうちに重く見るという習慣のせいでしょう。つまり、人権を正しく理解することが許されない社会であるということが表れているのでしょう。
「権利には義務が伴う」は本当か?
まず、次の言葉を見てください。
「自分の権利ばかりを主張して、公のために果たすべき義務を忘れている」
具体的な言葉は違っても、同じ意味のことを、政治家から、テレビから、職場で、学校で、床屋で、居酒屋で、家庭で聞いたことがあるのではないでしょうか?もう一度、日本国憲法と自民党改憲草案のそれぞれの第十二条に戻ってみましょう。
日本国憲法
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
自民党憲法改正草案
第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。
国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。
自民党憲法改正草案には、現行憲法には無い「自由及び権利には責任及び義務が伴う」というフレーズが入っています。市井で皆さんが耳にするかもしれない、この言葉は実は人権という概念を根本的に破壊するものなのです。ここで、樋口陽一氏と小林節氏の上記対談からの抜粋を読んでみてください。
「権利には義務が伴う」という考え方は根本的に間違っているのです。人権は、商売の道具のように、何かと取り引きされて与えられるものではありません。すべての人が生まれながらにして持っているものが人権ですから、人権を得るために何かを取り引きのために差し出すという考え方は、人権という概念をそもそも否定しているということです。
教育勅語
「個人の消滅」と「家族の導入」で話で浮き上がってきたのは、自民党の憲法改正草案の裏にある思想です。その思想に非常に近いものが教育勅語に表れています。
教育勅語とは、1890年(明治23年)10月30日に明治天皇によって下された教育の基本方針を示す勅語である。正式には、「教育ニ関スル勅語」とも言います。
日本国憲法が1947年(昭和22年)5月3日に施行された後、衆議院・参議院の双方において、
教育勅語は、「神話的国体観」及び「主権在君」を標榜しています。1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法は、民主主義・平和主義・国民主権を三大原理としているので、教育勅語は当然日本国憲法に違反になります。
1948年6月19日、衆議院は「教育勅語等排除に関する決議」を、参議院は「教育勅語等の失効確認に関する決議」を行うことによって、教育勅語は正式に失効しました。
教育勅語は戦争に向かう日本で、国民教育の思想的基礎として神聖化されていきました。自民党改憲草案の内容がそんな教育勅語を踏襲しようとしているとしたら、復古主義に陥っているということであり、深刻な事態です。自分の目で一度確かめることをお勧めします。